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朝餉を終わらせると、矢彦がすべきことはなくなっていた。里長の地位を持ったとしてもその大部分の労働は武士が務め、矢彦は主にそれを指示する側となっていた。
だが、今日はこれといってそのような仕事はない。
そういう日は普段ならば武芸に嗜んだり里まで下って様子見をしたりする。あるいは他の所までとんで行ったり狩りを楽しんだり。しかし矢彦は、今、体を動かすことさえ億劫なのだ。里まで下りてのんびりするならまだしも、昨日のように体を派手に動かしたり、ましてや狩りをする元気はない。
そもそも、今は春の芽生え。
里が活気づく時期とは少しずれているためか、冬並みに静寂な雰囲気を保っている。その中で散歩をしても、きっとつまらないだろう。
さて、何をしようか。
「おや、成宮さま、お暇しておりますな」
考えることすら馬鹿馬鹿しくなって足を伸ばし、柳が嗜んでいるという庭園に目をやった時だった。
「長老どの」
顔に数え切れないほどの皺をつくり、知性的な雰囲気を醸し出した老人がそこにいた。里の重要な地位につく長老の一人だ。長老は全員で三人。いずれも強欲で、厄介極まりない存在だ。里長である矢彦の言うことはそっちのけ、命令を聞かない事が殆どだ。そのせいか、九卿はいつでも長老の失敗と命を狙って、失脚を望んでいるようだった。
「母君の世話する花はいつも綺麗な色を見せてくれ、楽しませてくれますぞ」
自分に媚びているような台詞だ。悪いが、昨年もその一昨年も同じ言葉を聞いたのだが。
適当にそうですね、と話を流す。
「貴殿がこうしている間にも伊賀の者がこちらに勢力を広げていますぞ」
「知らぬな」
またか、と矢彦は舌打ちをする。
長老は何が何でも自分の里を増やしたいようだ。そして自分の名を世間に広げたがっている。そこまでしなくとも、この里はもうすでに滅びぬはずなのに。
「先日の戦、貴殿は成功なさって原木を占領いたした。だが、その山には山賊の輩がいると聞く。排除すべきでは」
「その必要はなかろう。そもそも原木は占領すべきではない。今すぐにでも解放せよ」
「それこそ必要ないはずですぞ、成宮さま。何ゆえ里の拡大を望まぬのか。大きければこの里も安定する」
「忍びに安泰する場所などあるはずがなかろうに。里は今があるからこそ平和なだけだ。これ以上の侵略は防ぐべきだ。……と言ってもわからぬのだろうな……もうよい、下がれ」
「……はっ」
そう言って長老はまだ寒いのか、上に羽織った着物を翻し部屋から出て行く。
嵐が去った。さっきよりかは幾分か小さかったが、それでも疲れるのは間違いない。
「はぁ……」
長老との言い合いは今に始まったことではないのだが、疲労が少しずつ溜まっていっているような気がした。
気晴らしに庭に出て、薄桃色に咲く花に手をやった。と、そこで背後に何かの気配を感じたので、振り返ってみると柳がいた。
「まぁ、矢彦。動けないのではなかったの? 九卿はそう言って天華の所に遊びに行ってたわよ」
「……散歩程度ならば動ける」
そうか、しまった。暇なら天華の所に行けばよかったのだ。
失念したことを恥ずかしく思い、さらに落ち込んだ。
「ふうん。どうせ今暇なのでしょう? 阿呆面していたもの」
はっとして顔を引き締めると、例の如く柳に笑われた。
「ちょうど良いわ。今ね、食用の苗を下の方からいただいたの。せっかくの機会だわよ、矢彦。土を触ってみないかしら? 大地の恵みに触れることも良い学習になるわ」
「こんなものかしら。秋に収穫だそうだから、女官に頼んでこれを料理をしましょう。楽しみだわ」
汚れた手を軽く払い、柳は満足げに盛り上がった土に微笑んだ。美味しくなってね、と。
だが、矢彦は爪の中に入った土が気になってそれどころではない。その様子に呆れた柳は近くにある水場まで連れていき、土を洗い流すよう促した。
「そういえば、昨日私の所までに使者が来たの」
「……何?」
「閑がこちらに帰ってくる、と。そのための土産をもてなそう、ですって」
閑が帰ってくる。
それはこの上なく面倒な知らせだった。
「あと志穂さんもこちらに訪れるようで」
一瞬、誰だったろうか、と悩んだ。それから、あぁ、と納得する。
閑は確か、父親の死を理由にその少女と駆け落ちしたのだ。里長が嫌だと言って、一方的に。長老には父親が何故死んだのか知らされていなかったので易々と納得できただろうが、矢彦にはそうもいかない。そこで閑は少女の元へ行くと言って矢彦と決闘し、見事勝った本人はそのまま数年間里に帰らなかった。
その閑が帰ってくる。何もかも忘れて、何事もなかったようにして帰ってくるのだ、きっと。
まったくもって、忌々しい。
「あらあら、なんだか矢彦、今日は雰囲気が怖いわよ」
にこにこと微笑む柳の呟いた一言はつゆ知らず、こうして矢彦の疲労は溜まっていくのだった。
敬語が適当なのでもし間違っていたら教えてください……。
2007.06.08
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