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体もだいぶ動けるようになり、やっと柳から開放された。矢彦は気を取り直して、今度は天華のところへ行くことにした。
天華のいる屋形は一番奥にあり、しかも入り組んでいて着くのに時間がかかる。前は矢彦や九卿が普段いる場所にいたのだが、正室に迎え入れたと同時に住むところが変わってしまった。
他の男性が来ることがないので安心といえば安心するのだが、はっきりいうと不便で仕方ないのだ。些細な用事で屋形に行くのにも憚れ、今では時間のある夜にしか会うことがない。その夜でさえ、周りの皆は情事だと勘違いして含みのある笑いをよくするのだ。そうではない、話をするだけだと説得しようにも、なかなか納得はしてくれない。
普段にもこういう悩みはつきものである。
今日は幸い、何も用がない。喜び勇んで天華のいる小さな屋形へと着いたのだが、肝心な本人がいない。本人どころか、一緒にいるという九卿の姿さえ見当たらなかった。
「おい、そこ。天華はどこへいった」
ふと目に付いた女官に声をかけると、驚愕の目と合ってしまった。
やはり、昼にここへ来るのはやばかっただろうか。
「お、おやかたさま?!」
「天華はどこだ?」
混乱している女官をよそに、矢彦は追及を続ける。
朝からずっと感じている苛々がなかなか収まらない。
「九夜さまと村のほうへ行くと仰っておりました……まだ見たことがないと言って」
「……わかった」
今度は村のほうへ行かねばならないらしい。だが悲鳴を上げる体に、矢彦は限界を感じていた。
最早これまでか。
「ただいま〜、ってあれ? 矢彦?」
「九卿……」
天華の部屋でしばらく待つと、村から帰ってきたらしい九卿が現れた。
「天華は」
「おかえりとか言わないの、矢彦? もう頭の中全部が天華に侵食されちゃって」
「……」
矢彦が口を開く前まではご機嫌だったのだが、矢彦の対応に不満があったらしい。こうなれば九卿は頑固だ。意地でも天華の場所を口割らないはずだ。
しばらく対峙する二人だったが、ついに矢彦が折れた。
「…おかえり」
「ただいま!」
ぱっと顔を明るくさせて九卿は寄り添った。
「天華はねぇ、柳のところにお土産を持って行ったよ!」
また自分の母親のところへ行かなければいけないのかと思うと矢彦はげんなりした。
柳が普段使っている部屋も天華と同じ屋敷だったので着くのにそうは時間がかからなかった。
だが、またしてもそこには天華がいなかった。
「天華? ついさっきそこの女官たちについていったけれど。隣にいるはずよ」
「ここにはいないのか……」
あまり動いて欲しくないと思ったのが分かったのか、柳は苦笑し、矢彦を見定める。
「まぁそう怒らないことよ。きっと会ってみればそんなことどうでもよくなるから」
「どういうことだ?」
「うふふ、いいから会ってごらんなさいよ」
意味深に笑う柳だったが、矢彦はあまり気に留めず、部屋を出た。九卿がまたぴったりと引っ付くのを感じた。夏ではないのであまり暑くはないのだが、なんというか、暑苦しい。
そんなことを考えていると、隣のほうからも戸を閉める音が聞こえた。
天華と数人の女官たちだった。
「あ、矢彦!」
矢彦を見るや、すぐに顔を綻ばせて近寄ってきた。取り巻いていた女官たちも笑顔だ。
「あのね、九卿と一緒に村に寄ったの。露天って本当にいっぱいあるのね! 商店街よりも店が多くて迷子になりそうだったの」
それでね、と満面に喜びを含ませて話を続ける。その顔を見れば不思議と矢彦の蓄積された疲労が消えていくのを感じた。
――――あぁ、この感じは……。
柳の言っていたことが、今納得できた。
天華の笑顔を見れば、今どの状況にあろうとも耐えられそうな気がするのだ。現に朝から感じていた疲労は全く感じない。この笑顔にはとても不思議な力があるのだろう。
「あとで部屋で話すね。まだまだいっぱい発見したことがあるのよ!」
矢彦は、今この時幸せを感じた。
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番外編2。矢彦のストレスについて書いたつもりでしたが、最後は天華との鬼ごっこになっている気が……。
おやかたさま=里長=成宮=矢彦 です。ややこしくてすみません(汗)
春日遅遅 // しゅんじつちち
《春の日が、ゆっくりと過ぎ、のどかな様子のたとえ。》
2007.07.21
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