矢彦は体を動かせないでいた。
 昨日久しぶりに体を動かしていたせいか、筋肉痛が酷い。最初の軽い運動もこなせず紀伊に滅多打ちにされたのだ。腕ひとつ持ち上げるだけでも鈍い痛みが神経を通って頭に響く。これほど辛いことないだろう。
 昨夜あまりの痛みに倒れるようにして布団の中に入ったのだが、あの後天華がもぐりこんだことは、覚えがない。その頃にはとうに夢の中に入ってしまったのだろう。頭の鈍痛に叩き起こされて目が覚めると、正面に天華がいることに驚いて情けなく叫び声をあげるところだった。

「むふふふ……」

 満足に笑って寝ているところを見ると、とても良い夢を見ているのだろうか。時々「うへへ」とか「にゃはは」とかよくわからない笑い声を上げるのだが、特におかしい所はないはずだ。天華が寝言をいうのは日常茶飯事である。
 戸の隙間から漏れる光に眩しいと感じ、ようやく朝が訪れたのだと認識できた。普段は日が登る前に起床するのだが、今日は遅い。
 矢彦は天華に布団をかけなおし、非常に遅い動作で布団から這い出た。








「矢彦、亀みたい」

 朝餉を取らせるつもりが、何故か女官ではなく九卿が部屋に訪れる。部屋でまだ天華が寝ているからと、廊下に追い出し、今は何も使っていない正面の部屋で取ることにした。
 朝餉を取っている最中、九卿はじろじろと矢彦を見ていて、心底からどこかに行ってくれと頼んだ。九卿にあれこれと言われるのは、何となく嫌なのだ。

「ううん、少しニュアンスが違うかな。蛇、というところかな」
「にゅあんす、とは」
「感情とか物の細かい違いのこと、と天華から聞いたよ」
「ほう」

 むわ、と胸のどこかで妙な熱風が来た。なぜかむかむかする。九卿が天華の話題を出すときはいつだってこのような感情になるのだ。
 どうしたことか。知らず食事を停止していたようで、九卿にご飯食べないの? と聞かれ無言で食事を再開する。

「で、なんで矢彦はまともに座れず猫背になっているの」
「……お前、昨日何を見たんだ」
「矢彦と紀伊の一騎打ち」
「……何かが違う」
「だって最初はただの手慣らし訓練のつもりが、途中から矢彦が逆上したんでしょ」

 そうだっただろうか。
 紀伊と刀一本で勝負を持ちかけた記憶はあるが、どのような経緯でそうなったのかはあまり覚えていない。まともに動けぬまま手合わせたのだからよほどの事情だったのではなかろうか。

「……」
「もしや、覚えてない? そういえばそこらへんの矢彦は目が虚ろだったような気がするけど……」
「……」

 無言は肯定。それを悟ったらしい九卿はあははと笑い出す。

「やだなぁ、覚えてないんだぁ。紀伊が天華を貶したから、怒ったんでしょ?」
「あぁ……」

 言われてみればそうだったのかと納得した。
 そうだ、確か紀伊が天華のことを色々言ったからそれに腹を立てたのだった。そして結果は散々だ。

「体が鈍っているのに喧嘩を売るなんて馬鹿だなぁ。矢彦じゃないみたい。天華が絡むと子供みたいに馬鹿になるんだよね」
「うるさい」
「本当のことなのになー。天華に言ったらどんな反応するかなぁ」
「――っ! 黙れ!」

 九卿はからかっているだけだ。そうとは分かっていても、やはり冷静にはなれなかった。九卿が天華の名前を口に出すだけで、それだけで焦燥感に駆られた。
 そうしてさらに胸のむかむかが広まっていく――。

「もういい、食べる気が失せた」
「あれぇ、まだご飯余ってるよ」
「誰のせいだと思っている」
「……ふぅん」

 箸を乱暴に置いて女官を呼び、朝餉を下げてもらった。何故だろうか。今までご飯を残したことはない。どんな憂鬱なことがあっても食べなければ体が持たないのだ。それ以前に食欲が失せるなんてことはなかった。
 このような原因となった九卿の顔を見たくないと思い自分の部屋に戻ろうとしたとき、ちらと目に入った九卿は笑っていた。

「矢彦、嫉妬?」
「な」
「やだなぁ、僕に嫉妬だなんて。なんだか面白そうな展開になってきたぞ」
「面白くない!」
「うふふふ……」

 こちらから振り切って逃げてやろうと思ったのに、あっけなく九卿は去っていった。なにやら怪しい笑みを浮かべながら。




 続きます。ちなみに矢彦視点のみの番外編です。
2007.06.02

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