「天華の意気地なし」

 七海はそう言った。
 ベッドに二人で体を滑り込ませた後だった。さぁ寝ようかという所で不機嫌そうに七海は私を睨みつけた。

「もう戻れないなんて言ってる。何か試したの?」

 その問いに、私は答えられなかった。
 しばらく無言でいると、寝息が聞こえてきた。七海は酔っ払っていたせいもあってか、すぐに寝てしまったらしい。私はちっとも寝つけない。
 七海が起きないようにゆっくりと身を起こし、ベランダに出た。
 春とはいえ、夜の今ではまだ肌寒い。それに渡されて腕を通したのは半そでのTシャツだ。風邪のことを考慮してくれなかったと思うと、ちょっとだけ悲しくなる。
 ベランダから見える夜景は明るかった。生まれたときはそれなりの田舎で、高校生から東京に出て、そして今では一人暮らしを始めている。東京の夜はどこでも光が漏れていて、あまり暗いと思わせない。それに夜中でも車が多く行き来しているのだ。休む暇もなさそうに忙しく働く人々を見ていると、いつも大変そうだな、と思った。

『もう戻れないなんて言ってる。何か試したの?』

 先ほどの言葉を思い出して、いっそこのベランダから飛び降りてみようかと思った。

――――それも良いかもしれない。

 あちらの時代に行ったときも現代に戻ってきたときも、高い所から落ちていたのだ。もしかしたらあちらの時代に行けるかもしれない。
 だけど、失敗した時は?
 七海の部屋は七階だ。運が良くても無傷でいられるはずがない。死ぬ確率も高い。ここから覗いて見える歩道には人がたくさんいる。それに周りにはライトがたくさんあって人に見られる確立も高い。

「……」

 どうしよう。いざとなったときに出てこない勇気を恨めしく思った。








「押してあげようか?」

 はっとして振り返ると、七海がそこに立っていた。

「……起きていたの?」
「寝たフリした。じゃないと天華、いつまでたっても行動しないだろうし」

 七海は腕を組んで、私を見下ろしている。その目には多少の苛立ちがあった。

「好きなんでしょ?」
「……うん」
「なら会いに行ってあげなよ。押してあげるからさ」
「もし行けなかったら、私は死んでしまうんだよ? 七海は殺人犯になっちゃうのよ?」
「そうならないように願うしかないでしょうが」

 そっと背中に添えられた手はとても暖かくて、私は安心した。
 ベランダから飛び降りるのは怖い。けれど、七海がいるだけでこんなにも安らいでいく。

「天華、綺羅は願いも全て消えると言っていたけどね、私はそうじゃないと思うんだ。まだ願いは消えていない。最後のための願いがあると思うんだ。じゃないと天華が何のためにあちらの時代に行って、ここに戻ってきたのかわからなくなるじゃない」
「七海は、わかったの?」
「天華は矢彦を救うために向こうの時代に行ったんじゃないかしら。そして戻ってきたのは、私たちここにいる人にさよならを告げるため。最後のための願いは、天華がここに残るのか、それとも戻ろうとするのか、そのために残されたんじゃないのかと思うのよ」

 これも勘だけどね、と七海は笑った。
 最後の願いがある。そうだとすれば私はまだ願うことが出来るのだ。

「――私、戻れるの?」
「……ほら、なんか私に言うことあるでしょ?」
「ありがとう……さようなら、七海」

 ありがちな台詞の度を超えて、単純な言葉しか出ない。それでも七海にとても感謝している。
 七海の目には、涙が浮かんでいた。私の目にもあるだろうか。でもやっぱり、最後までは七海のしっかりとした顔を見ておきたくて、泣くなよ、とからかう。

「天華、ばいばい……」

 声も涙声だった。


 正面切ってベランダから夜景を見る。
 これからあちらの時代に行くのだと思えば、不安はなくなっていた。

「いくよ」

 その言葉と同時にかなり強めに背中を押され、空中に飛んだ。
 二回も飛んだせいなのか、それとも七海が見守っているせいなのか、それなりの恐怖は感じなかった。






 私はあなたのいる時代に飛ぶわ。

 さぁ叶えて、私の全神。この願いを。

 back // top // next
inserted by FC2 system