13.勇者の力


 右肩からおへそのあたりまでざっくりと切られ、圭は茫然としていた。
「あ……」
 切られた勢いで尻もちをつき、肩に手をやる。ぬるりと嫌な感触がした。怜雄とは少し距離があったためか、切られたところはそう深くなかった。しかし、肌蹴たところから見える赤黒いものは、圭の気分を良いものにするはずがない。
「う、あ」
 目の前が真っ白になった。
 最初は感じられなかった痛みが、キリキリと体中に悲鳴を上げる。首を絞められたような苦しみの比ではない。死んでしまうの、と圭は呟いた。
 傷を抱え前かがみになろうとしたが、男の足で左肩を押さえられ仰向けに転ぶ。その反動で痛みが急激に増した。
「いった」
「騒ぐと喉に刺すぞ」
 目の前に自分の血がついた剣を構えられ、上げそうになった悲鳴を慌てて飲み込んだ。
「れ、お、あんたはっ」
「恨むなら己を恨むんだな。心当たりはあるんだろう?」
「どうしてこんなことをしているの! 前の『勇者』はこんなことをしなかったはずよっ」
「うるさい!!」
「きゃあああっ!」
 一度切られた右肩をもう一度切られ、圭はあまりの痛さに失神した。
 反応がなくなった圭を踏みつけていた怜雄は、苦い顔をしたまま血で汚れた剣を鞘にしまった。
「行くぞ、青。今ので誰かに感づかれた」
「圭はどうする?」
「放っておけ。用済みだ」
 そう言って怜雄は剣を持ち直し、マントを翻す。青も怜雄に続こうとしたのだが、草を踏む音に気付いた。
 後ろを振り返り、剣を構えなおすと、怜雄もそれに倣った。
 しかし、その音の正体は表の学園である神名木学園の制服を着た弥撒だった。弥撒は血の臭いに眉をひそめた。そして青を一瞥し、目を瞠らせた。
「あんたは……!」
「お前、確か先日圭と一緒にいた生徒か。ここの掃除当番と聞いたが、何故この時間にここにいるのか」
「圭? おい、そこの倒れている人、まさか」
 二人の男の後ろには血まみれで仰向けになっている女がいるのを見て、嫌な予感がした。何故動物もいないようなこの森で大怪我を負うのか。頭に浮かんだ最悪のパターンを払拭するために弥撒が倒れている女に駆け寄るが、黒い騎士の服を着た男に阻まれる。
 邪魔だ、と言いかけ、園生や隣に立つ男が着ていたような服ではなく黒いことに疑問を抱き、その男の瞳を見た。

――――青い。

 『勇者』。
 弥撒は先日の絵里との会話を思い出した。
 確か、女が『勇者』に狩られると言って『勇者』から逃げているということ。その女は二人の男の背後にいる。
 想像力が乏しい弥撒でも、この状況を理解できた。
「あんたが、切ったのか。そのひとを」
「……」
 弥撒は勢いよく『勇者』の鳩尾に拳を入れようとしたが、それはすんでのところで止められた。

――――こいつ、強い!

 今まで喧嘩ばかりしていた弥撒は咄嗟に悟る。このままだと自分に勝ち目はないだろう。だが、弥撒には躊躇う時間も惜しかった。早くその女の人を病院へ連れて行かなければ、死んでしまうかもしれない。
 突きだした拳をそのままに、今度は反対の手を男の顔に殴ろうとした。しかし、足を払われその拳は空を切った。そして掴まれていた手首を背中に回され、右腕全体が痛み出した。軽々と手首をひねられたのだ。
 手首をひねられたところで怯むような弥撒ではなかったが、突然の首への衝撃に意識が飛んでしまった。
 だらりと力がなくなった弥撒の体を持ち上げ、怜雄はため息をついた。
「最近、学園側の警備が薄いと思わないか」
 同意を求める言葉に返事はなかった。返事がなくとも答えはわかっていた。
 学園側は、『違使』の存在を知っているから警備は必要ないと思っているのだろう。違う理由があるのかもしれないが、どちらにしろ『違使』が増えるのを好ましく思わない怜雄にとっては迷惑なことだった。
「どうやらこいつは鼠のようだな。このまま生かしておいても目障りなだけだ」
「殺すのか?」
「今のうちに根絶やしにしてしまえば、森をうろつく『違使』も減るかもしれないだろう」
「それは、」
 そこで青の言葉が切れた。周りを素早く見わたし、怜雄、と注意を促した。
「分かっている。『聖母』の徘徊か」
 いつもよりも早い時間だ。普段であれば死体をこのままにしてさっさと『エデン』に戻るのだが、『聖母』がいるとなれば事情は変わる。
「青、そいつの血を塞いでさっさと戻るぞ」
「……放っておかないのか?」
「『聖母』に見つかるのが嫌なだけだ」
「じゃあこの二人はどうする」
「戻ってから考える。急ぐぞ」
 怜雄は弥撒を、青は圭を抱えて『エデン』のほうへ走り出した。




 二人の屈強な男に守られるようにして『聖母』は現れた。まるで面白いものを発見したかのように、口に笑みを浮かべたまま隣に歩く男に話しかけた。
「あら、悲鳴が聞こえたような気がするのだけど」
「人がいないか調べましょうか」
「構わないわ。あなた以外の『違使』も夜回りしているのでしょう? いずれ死体か学園の生徒か、発見されるでしょう。あら、でも、愚かな『水鳥』だったらどうしましょう。みすみす逃がしてしまうわね」
「やはり見てきましょう」
「お願いね」
 男のうち一人が悲鳴の上がった方へ駆けて行った。『聖母』の傍に仕えているだけあって、迷いもなく場所を突き止めて行っているようだ。
 『聖母』はもう一人の『違使』に、ねえ、と耳元に口を近づけた。
「そろそろ代替わりの時期でしょう? 次期『聖母』は私が見初めてもいいのかしら」
「学園長に申し上げれば話は通るでしょう」
 なんせあなたは『聖母』なのですから、と男は続けた。
 ここでは学園長よりも『聖母』の意見がまかり通る。一番の権力者は『聖王』だが、彼ですら『聖母』の意見を反故にすることはできない。『聖母』が悪を正しいと言えばそれに従わなければならない。それが裏の神名木学園の世界だ。
 だが、それは今の『聖王』が大人しいために適えられた世界だった。

「『聖王』がなんと言うのかしらね……」




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