12.再会と初会


 『勇者』が出て行った部屋の中で、女が咳き込みながらもゆっくりと起き上がった。
 空気を吸うたびに胸がキリキリと痛む。まるでマラソンで走り終えたときみたいだ。
 風が通らぬはずの密閉した部屋に、冷たい風が通る。幸い、『勇者』は鍵をかけて行かなかったみたいだ。ドアが半開きになっており、ギイ、と古臭い音を鳴らしている。だが、いつ『勇者』が戻ってくるかもわからない。女はまだ痛む胸を押さえながらドアへ近づいて行った。
 そこには剣をぶら下げた男がいた。
 『勇者』がもう帰ってきたのかと、女は体を強張らせたが、彼は黒いマントはしていたが下は白の騎士の装束だった。
「青……」
「ついてこい」
 青は暗い廊下の先へ進む。女はついていくべきか一瞬躊躇った。
 青は女にだからといって安心はできない。ただ直接殺されるということがなくなっただけだ。

 『獅子』は『勇者』の手下。
 イカロスの父が閉じ込めようとした半人半牛。
 神話とは話が少し違えるとしても、『勇者』は『獅子』を操ることができるもの。
 『獅子』に逆らうということは、『勇者』の反逆になるということ。既に『勇者』に目を向けられたとはいえ、これ以上怒りを買うと、今度は本当に殺されかねない。
 青の後ろを渋々ついていくと、やがて『エデン』という名の古城から外に出て、森の中へと足を踏み入れた。
「……一体どういうこと?」
 青は無表情で女を見下ろした。
「清水圭」
「……私の名前を呼んでどうしたいの?」
 圭は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「お前は生きたいか?」
「当たり前でしょう」
「では問いを変えよう。『エデン』から抜け出したいか?」
「当たり前よ」
「だそうだ、怜雄」
 青の視線が圭を通り越した。圭ははっとして後ろを振り返った。
 青と同じ黒いマントに騎士が着る服を身につけている。ただ、その服が黒い。それを意味しているのは彼が『勇者』であるということ。
 彼は、『勇者』は唇の端を上げて嗤った。

「残念だな。俺らはその問いの答えを持ち合わせていない」

 不意に何かが切られる音がした。




 鬱蒼とした森の中。日がいくら照らされようと、木が邪魔して完全入ってこない。夏が近いというのに、鳥肌がたつほど寒気がする。
 何時間も歩いてきているのだろう、日が徐々に傾いてきており、空が赤く染まりつつある。
 最初は園生少年が去った方向へ向かっていったが、園生少年がわざと違う方向へいった可能性もあると考え、二人は目的の『エデン』に向かって歩いた。だが、依然として近付いた気配がしない。弥撒は改めて森の広さを実感した。
「まだか……」
 いつまで歩けばよいのか。
 弥撒は小さくため息をついた。
 先ほどから絵里と会話がない。ばかばかしい会話をするには疲れがたまってきている。弥撒が漏らす独り言に絵里が言葉少なく答えるだけだ。
「夜になるな」
「そうね」
 夜といえば、真利亜が以前忠告していたのを思い出す。『夕方までには帰ってこい』と言っていた。『夜になると閉じ込められる』、とも。
 夜になると何か起こるのだろうか?
 そして閉じ込められる、とは誰に?
 『死ぬ覚悟』をしなくてはいけない、という校長の言葉も気になる。
 殺される危険があるということなのだろう。だが、一体誰に殺されるというのか。
 『勇者』が森に迷う人を『エデン』に閉じ込めて殺している、という仮説が浮かび上がってくる。閉じ込める理由がないと思うのだが、一番可能性としては高い。
 では『勇者』に見つからぬように『エデン』に潜入すれば『死ぬ覚悟』は必要ないのか。

――いや、それはまずない。

 もう手遅れなのだろう。
 弥撒と絵里は既に『エデン』に捕えられているのだろう。
「こんなつもりではなかったのだがな……」
 安眠を求めてこの学園に入ったつもりだった。だが安眠どころか、とんだ母親の罠に引っかかってしまった。
 こんなつもりではなかった、本当に。

――待ってろ、親父。あたしがあんたを暴いてやる。あたしの気が済むまでな。




 しばらく森の中を彷徨っていたが、前を進んでいた絵里が立ち止り、やっぱりねと呟いた。
「弥撒、思った通りだわ。私たちはもう『エデン』の中に入っているんだわ」
「何だと?」
「悔しいわ。今まで歩いてきたのはなんだったのよ」
 腰に手を当て、絵里はため息をつく。
 何が何やらさっぱり分からない弥撒は絵里の言葉を待った。
「何も高い塔だけが『エデン』ではないということよ」
「どういう意味だ?」
「つまりね、木の高さほどに建物が建っているのなら、低い場所にいる私たちの目からは全く見えないということよ。ただ高い建物ばかり目を向けていたから、それが『エデン』だと思い込んでいた」
「当たりだよ」
「?!」
 突然降ってきた女の声に慌てて背後を見る。
 弥撒よりは年上に見える、知らない女だ。横髪がすらっと伸びて、前髪の一部と一緒に丸い髪留めで留めている。神名木学園の制服を身につけているが、下着が見えそうなほど短いスカートはお嬢さま学校に相応しくない。そもそも奇抜な弥撒や絵里が簡単に入れるような学校ではないのだ。偏差値が高いだけでなく、学費も馬鹿みたいに高いので有名な学校なのだ。つまり、将来は医者や社長さんになりそうな子供ばかりなのである。そんな両親の子供である弥撒の頭は、きっと両親のどちらかの遺伝なのではと疑った。絵里も姉がこの学校に入学してきたというのだから、優性遺伝子を引き継いだに違いない。
 それはともかく、ミニスカ女学生は弥撒よりもこの学園に馴染んでいると思えなかった。

――まさか、彼女も『エデン』の者か?

 弥撒の直感は当たった。
 彼女の大きい目が絵里へ、そして弥撒へと動く。
「ようこそ、『エデン』へ。あんたたちは森の迷い人じゃないみたいだね。まるで自ら命を捧げに来た生贄のよう……最近はモノ好きが多くて困る。自分の身をそこまで大事にしないのはこの世に未練がないということなのかな? そういうことなら『聖母』もこの子たちを見習ってほしいもんだね。私はちっとも見習いたいとは思わないけど」
「ここは『エデン』なのね?!」
 絵里が身を乗り出して叫んだ。
 だが、彼女は顔をしかめるだけで、絵里の問いには答えなかった。
「私は同じことを二回も言うのは嫌いなんだ。過去、未来よりも、今この一瞬を味わうのが好きでね。だから私はあんたたちを見たからといって『勇者』に告げるつもりはないし、そもそも私は人助けするのは性分でないから結局はあんたたちを放っておくことになるんだけど。あんたたちに声かけたのもただの気まぐれだと思ってよ」
「あなたは『勇者』を知っているの?」
「何をいまさら……ああ、そうか『エデン』の者でないなら知るはずもないか。私は『勇者』、夏目怜雄の幼馴染み、仙木酉音(そまぎゆね)だよ」
 気まぐれだとは言うが、彼女は実はかなりのお人よしなのでは、と弥撒は思った。いとも簡単に名前が聞きだせるとは思わなかった。
 いや、お人よしは違うか。ただのおしゃべり好きの女の子にも見える。
「ところであんたたち、怜雄に見つかったら殺されるよ。結構近くにいるんだから」
 彼女が言い終える前に、静かな森を切り裂くような悲鳴が聞こえた。
「――ッ?!」
「ああ、他に女がいたみたいだ。さすが女殺し。といってもこのあだ名をつけたのは『聖母』だから気に食わないんだけどねえ。好き好んで女だけを殺しているわけでもないし」
「ちょっと恐ろしいことぶつぶつ言うより、何なのあの悲鳴は! って、弥撒?!」
「絵里、行くぞ!」
 弥撒は悲鳴が上がったところへ走り抜ける。後ろで間延びした声が聞こえた。
「ミサ? ほう、また大層な名前だ。ちょっとこれからひと悶着起きそうだなあ……うわあ、面倒臭そうだなあ」
 絵里も慌てて弥撒を追いかけようとしたが、腕を引っ張られて尻もちをついた。
 見上げると、酉音が絵里を見下ろしてぶつぶつ呟いている。
「君、名前は?」
「後にしてくれない?!」
 さっさと起き上がろうとするが、片腕を強く握られたままではうまく起き上れなかった。
 絵里が暴れている間に、弥撒の姿はもう見えなくなっていた。
「放して!」
「そうもいかないよ。君さ、どこかで見たことあるんだよね。もしかして君、前髪を伸ばして横に流すと、お姉さんに似てるとか言われる?」
「!」
 やっぱりね、と酉音は呟いた。
「ちょっと君のお姉さん、立場的に結構危ういところにいるんだよね。『勇者』並みに」
「お姉ちゃんを知っているの? お姉ちゃんはどこ?!」
「『エデン』の奥深くだよ。普通じゃたどり着けないほどの、ね。でもちゃんといるよ、『エデン』に」
 絵里は泣きそうになった。
 やはり『エデン』にいたのだ――姉を知っているという彼女の言葉に嘘はないと信じたい。
「生きて、いるよね?」
「命の保証はある。彼女が殺されることはまずない。彼女はあそこから逃げようと考えてないようだしね。あと一年もすれば無事『エデン』とも卒業できるんじゃないかな」
「……よかった」
「だが問題は君だ。おそらく君はお姉さんを探しにここまで来たんだろうけれど、それは逆にお姉さんの足を引っ張っていることになる」
 考えを巡らしているのか、しきりにあごに手を当て、絵里を見ている。
 絵里は体を強張らせた。
「どういう、意味?」
「私がここまで助言するのは滅多にないことだからね、よく聞きな。君は既に『エデン』の領域に足を踏み入れている。この先、何があろうとも絶対に『エデン』から逃げようとは考えないことだ。そうすればお姉さんと同じように、命の保証は約束できる。ついでとは言ってなんだが、君をお姉さんと引き合わせることも約束しよう」
「本当に?!」
「私は嘘つくことも嫌いだからね。だから忠告を無視すれば、君を助ける義務もなくなるということだ」
「わかったわ」
 断言する絵里に、酉音は初めて笑顔を見せた。
 それは笑顔というべきなのか、何とも言えない表情だった。

「それは良かった…………もう、悲しい思いをする『水鳥』は私たちだけで十分だ」
 彼女の笑顔は、今にも泣きそうだったからだ。



inserted by FC2 system