09.捕らわれた家族


 今日はどうやら縁起が悪い日らしい。
 朝からどうも睡魔の具合が悪いと思っていたのだが、昼に近付くにつれ睡魔はやがてピークを迎えた。
「ふっ……橘、もう先生はいろんな意味で泣けてくるよ……」
 机に突っ伏して、すでに睡魔に襲われた弥撒の上で先生はそうぼやいた。だが弥撒の頭には届いていない。睡眠第一の眠れる少女に話しかけるだなんてまったくもって無茶だ。先生の言葉は右から左へと受け流し、否、耳に入っていないだろう。もし入ったとしても弥撒の三半規管などの器官が聴覚とみなさずに全て払ってしまっている。よって弥撒の脳は未だに眠りについている状態だった。
 そしてとうとう先生の堪忍の緒が切れてしまった。

「橘ぁぁああっ! お前今からグラウンド10周走ってこいっ!」

 かくして弥撒は1周500メートルはあるグラウンドを睡魔と闘いつつ走ったのだった。




「委員長、話があるの」
 昼休み、あるクラスメイトのお願いとやらで中庭まで呼び出された。不運にも朝早く起きてしまった弥撒は、40分間という幸福な睡眠時間、もとい昼休みを妨害され、不機嫌になった。弥撒にとって一番大切にしているのは睡眠だ。なんせモットーは睡眠第一。授業中だって人が話している最中だって寝ることにしている。
 そんな睡眠と同じくらい大事なのはやはり人間のこと、楽しいことだろう。ゲームを嗜むことも好きだが、途中で飽きてしまうらしく、目を覚ませばいつの間にか朝になっていたということも少なくはない。
 そんな弥撒に話がしたいと名乗り上げたのは、クラスで最も影が濃い人間である藍沢絵里だ。金亡者の子供が多い――いいかえれば金持ちの子供だが――この学校で、弥撒と同じく奨学金という名のせこい金を使って入学してきた新入生の一人だった。見ればかなりの美人であり、家はそう裕福ではないから頑張って勉強してここに入学してきたのだと、話していたのを覚えている。
 そんな藍沢が弥撒に何を話そうとしているのか。
 華やかなバラが育つ中庭のベンチで優雅に腰を下ろす生徒たちを尻目に藍沢を捜すと、彼女は背の低い木々の間から現われて弥撒を手招きする。ついて行ってみると、そこには2人が座れるぐらいのわずかなスペースがあって、色々な植物に囲まれていた。さすが庶民ならではの発見というものだろう。これなら周りのだれからも見られることもない。別にやましいことをしているわけでもないが。
 藍沢はここを隠れ家と称していて、普段からここでくつろいでいるらしかった。
 昼休みといえば昼食である。家から持ってきたのだろうか、藍沢は弁当を広げて美味しそうなおかずに手をつけている。それに対して弥撒は購買で買ったパン。母の真利亜は仕事に忙しくて弁当を作っている暇はない。それに弥撒も弁当は苦手なので、少し栄養が偏るが購買に頼っているのだった。
 地べた、というよりは芝生に座って、さっそく話を持ちかける。
「話、とはなんだ?」
「……ねぇ、委員長。私と情報交換をしてみない? 悪い話ではないと思うわ。私、結構珍しい情報を持っているのよ」
 一瞬、情報屋か? と疑った。一体何の情報で、どういうことをして情報を交換するのか全く見当がつかなかった。
「やあねぇ、あの古城の情報に決まっているでしょう」
 その言葉で大体察した。藍沢もあの古城について調べているようだった。どうしてあの古城のことを調べているのかわからないが、たぶん、弥撒よりも多くのことを知っているのだろう。
「あたしはそう多くのことを知らないが……何が知りたい? ……いや、まずあたしから聞こう。藍沢はどうしてあそこのことを調べているんだ?」
 絵里でいいわよ、とけたけた笑った。
「私も弥撒って呼ぶから。……そうねぇ、私がこの神名木学園に入ったのは、古城のことを調べるためよ。そしてできれば古城に入りたいと思ってるわ。どんなリスクを冒してもね」
「どうして」
「2年前、私の姉がここに入学したの。妹のあたしが言うのも何だかなんだけど、頭がよくて、美人で、クールで……その姉が入学してからぱったりと連絡が途絶えたの。家に帰らないことは別に不思議じゃなかったわ。だって私の実家は四国にあるんだから。学園の近くにアパートを借りて、そこで一人暮らしを始めたのよ。でもアパートって必ず1か月にはお金を渡さないといけないでしょう? それで3か月たってもお金を払わない大家さんが怒っちゃって、姉の部屋の入り口でずっと待ち伏せしていたんですって。でも、一週間――ずっとじゃないだろうけれど、待ってみても姉は現れなかった。夜逃げしたのかと思って部屋に入ってみると、部屋は引っ越してきた当時のそのままだったのよ」
 ミステリーだ。
 知らず、弥撒は震えた。ホラーやサイコ系は大嫌いなのだ。ミステリーも部類は違うが、苦手だった。
「私も姉の部屋に入ってみたわ。本当に、変わりはなかった。家具が埃をかぶっていること以外はね」
「突然の事故で亡くなったんじゃないのか?」
「そう思ったわ。でも事故ったりしたら学校から普通連絡があるでしょう? それさえなかった。むしろ、こっちから電話してみたら姉は生きていますって言うのよ。訝しんで姉に会わせてくださいって頼んだら、会わせることはできないけれど声は聞かせることができるって言ったの。なんかおかしいと思わない? どうして会わせることができないのよ、やっぱり姉は死んだんじゃないかって言ったら……」
 絵里はそこで、口を噤む。
「電話に出たのは、正真正銘の姉だったのよ。本当に変わっていない声で、どうしたの? って。どうしたもありゃしないわよね、全く。こっちは心配してひやひやしてしてさ。それで今どこにいるのって聞いたら、学校の寮にいるの、だってさ」
「学校の寮?」
 そんなもの、聞いたことがない。神名木学園は私立では珍しいが、寮はなかったはずだ。だから遠いところから来た生徒の大部分は下宿やアパートを借りている。
「そう、そんなものはない。姉は嘘をついていたのよ。だからここに入学したの、真相をつかめるために。そしてわかったわ、姉は古城にいるってね」
 絵里は一息ついて弥撒を見上げた。時間はまだある。昼休みが終われば5限目に突入するが、幸いにも担当の先生が出張でプリント自習をするようにと言われていたのだ。だからここで1時間以上話すこともできるのだ。
 それで、と絵里が話を切り出す。
「弥撒はどうして古城を調べているの?」
「……一言でいえば、安眠を求めるため、だな」
「へぇ……そりゃ、また」
 絵里の口が半開きになった。呆気にとられているのは間違いないだろう。
「本当は母に、父の住んでいたところを見てきなさいと言われたんだ。かつて母と父はあの古城にいたらしいから」
 途端に絵里の目が輝いた。
「なんですって、じゃあ弥撒のお母さまに聞くのが一番手っ取り早いじゃない!」
「残念だな」
 弥撒はそう言って苦笑する。
「母は気まぐれな時しか教えてくれないさ。昔と今じゃ勝手が違う、とね」
 それでも垣間見る母の表情は、何かを語りたがっているように見えた。弥撒を通してかつての古城を見ているのか、それとも父を見ているのか――いや、違うだろう。父と弥撒は似ていないはずだ。母に似たこの容貌で少し違うと言えば目元あたりだが、母と違うからといって必ずしも父に似ているとは限らない。
 それでも、最近は父のことについて詳しくなってきたと思う。アキが、と語り始める母の顔はまるで恋する乙女だ。実際恋をしていたのだろうが、もう死んだ父にいつまでも恋し続けているのはある意味すごいと思う。
「じゃあ弥撒は古城のことについて何も知らないってこと?」
「さぁな。ただ意味不明な単語だけはいくつか知っている」
「……たとえば?」
「『勇者』、『水鳥』、『違使』、『エデン』……『エデン』は『エヴァディーン』を言いやすくしているのだそうだ。これは古城のことをさしているのだと聞いた」
「へぇ、『勇者』は知っているけれど、他のは知らなかったわ……なるほどね、『エデン』っていうの」
 納得がいったような顔で絵里は頷く。
「そういえば、聞いたって言っていたけれど、誰から聞いたの?」
「さぁ、名前は知らない。ただ上の学年の女だった、ということしか。あとで青という男に会ったが、その男とは別に何も話さなかったぞ」
「その青って人も何か知っているのかしら……?」
「知っているというよりはむしろ、向こうの人に感じられたがな」
 その一言で絵里は弥撒が森に入ったのだと悟ったらしく、よく出られたわね、と言われる羽目になった。
 しばらく絵里は何かを考えていて、その合間を縫って弥撒はパンをすべて食べつくす。
「その人、他に何か言ってなかった? というかその人はどこにいるの?」
「さぁな。青と話があるって言って一緒には外に出なかった。情報を知りすぎると『勇者』に狩られてしまうと言っていたし、なにより命を狙われていて逃げている途中だから碌な事がないとも言っていた」
「その言い分を聞くと、その人はもう『勇者』に狩られてしまったんじゃないかしら……」
 苦い顔をした絵里が呟く。
「『勇者』ね……きっと青っていう人は『勇者』の仲間なのだわ。その女の人が何らかの情報を持っていて『勇者』が近づいた……なぜ『勇者』が狩ろうとしているのかわからないけれど、それを察した女の人が逃げて、そして青という人に捕まった。そういうところかしら」
 すごい、と弥撒は感動した。たったあれだけの情報でストーリーよく組み立てられるのは、かなりの想像力が必要だ。そして弥撒には想像力が全くないに等しいのである。想像力で情報を収集する絵里と手を組んで正解だった。


「弥撒はギリシア神話を知っているかしら?」
「ギリシア神話?」
 いきなり何なんだ、とでも言おうとしたが、真剣な表情をしている絵里に失礼かと思い、弥撒は考える。
 ギリシア神話は存在だけ知っている。だが、ミケランジェロだかレオナルド・ダヴィンチだかその人たちが描いたような絵画しか出てこない。物語を思い出そうとしても、日本神話しかまったく出てこなかった。
「知らなくても当然ね。全ての学校が出てこなかったというわけでもなさそうだけれど、私の小中学校の教科書には出てこなかったもの。でね、これが私の知っている『勇者』の情報よ。もとは、『勇者』はギリシア神話のイカロスから来ているんですって」
「いかろす?」
 弥撒の耳が敏感に反応した。初めて聞く名だった。
「そう。あるところに王さまがいて、職人であるイカロスの父にある半人半牛を幽閉するために迷宮を作れと命令したの。でもその半人半牛が脱出して、王に疑われたイカロスの父はイカロスと一緒にある塔に閉じ込められたのよ。その塔を抜け出すためにイカロスの父は鳥の羽を集めて、蝋で固めた大きな翼を作った。父はイカロスに『イカロス、飛ぶときは空の真ん中あたりを飛ぶのだ。低ければ霧が翼を邪魔するし、高ければ太陽の熱で蝋が溶けてしまう』と忠告するの。だけどいざ飛んでみて調子に乗ったイカロスは高く高く飛んで太陽に近づきすぎてしまって、蝋が溶けてしまった。そしてイカロスは海に落ちてしまった、という話」
「……どこが勇者なんだ?」
「私もそう思うわ」
 絵里は苦笑して、おにぎりを一口食べる。
「表現の問題なのかな、空を飛ぶことは勇気がたくさんいるってことなんだし。ましてや今みたいに安全な飛行機はないでしょう? 下が真青な海が見えるなら尚更。それに私も今思えば何だこの話はって思うけれど、歌を歌ったときは正直泣けてきたの。子供のころはどうして人が死ぬ歌に敏感なんだろうね」
「歌?」
「あぁ、そうそう。このイカロスは歌になっているのよ。ストーリー通りの展開でね。最後に余分な歌詞がついていたけれど……」
「どっちにしろ、『勇者』はイカロスのことを指すのか?」
 首をかしげると、絵里も首をかしげてきた。
「ちょっと違うかな。イカロスは『勇者』の原形であって、今は単なる通称でしかないんだと思う。ほら、古城のことを『エデン』と言っているって言ってたでしょう? とある人のことを『勇者』、または『水鳥』とか『違使』とかそういう名称を使っているんじゃないかしら」
「なるほど」
 だからあの女の人は名称を言うことはできても意味を教えてくれなかったのか。きっと名称だけなら弥撒が『勇者』に狩られることがないと分かって。
「どっちにしろ『勇者』の目的がわからないと、もし侵入できたとしてもあの女の人の二の舞になるわね」
「せめて『勇者』がどういう奴だったか分かれば、『勇者』を避けながらでも探れるのにな」
 ふと、絵里が口に入れようとしたおにぎりを持つ手が止まる。
「あ、そっか」
「へ?」
「弥撒、頭いい。さすが委員長」
 満足げに絵里は微笑んだ。
「なんで気がつかなかったんだろ。あのね、弥撒。『勇者』はこの物語に沿って青にこだわるのよ。そして目に付けたのは、外国人。仕入れた情報によると、青い目をしたハーフが『勇者』らしいの」
「……ということは」
 弥撒は絵里と顔を見合わせる。
 絵里が悪戯っぽく笑ってウインクした。

「青い目をした奴に会わなきゃいいのよ」




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