05.弥撒の悩みと勇者の陰謀


 森は二メートル弱の塀に囲まれている。そして唯一の出入り口として使われるのが、清掃時間に見たあの大きい門なのだが、南京錠で何重もの鍵をかけられていた。……ここで不思議に思うのだが、昨日清掃の時にはこの鍵はかけられていなかった。こんな頑丈に、しかも不憫な鍵を誰かがかけたりはずしているのだろう。面倒だとは思わないのだろうか。
 しかし、これでは入るといっても入るところがないではないか。弥撒は鍵を力いっぱいに引っ張って、当たり前だが外れないことに舌打ちをした。
「お母さん、無理だ。これじゃ入れる隙間もないぞ」
 こんなにも頑丈にする必要があるのか、と疑いたくなってくる。もともとこの森には信じられないことだらけで弥撒は気味が悪くなった。
「いいえ、入れるわよ。そのための川なんじゃない」
「川?」
 さらっと言う母の言葉に弥撒はぎょっとした。森には川があって、そしてそれは水路へと繋がっている。もしかして、水路のルートで森にもぐりこもうとしているのか。真利亜はあははっと声を上げて笑った。
「嘘よ、嘘。入れるルートは他にもあるわよ。塀をよじ登る、とかね。ただお母さんの時代は水路を使って逃げるのが流行っていたから」
「流行っ……」
 水路を利用して森を出入りするのは相当苦労することだ。それに加えて服もびしょ濡れになり、運が悪ければその服の重みで死ぬことも有り得る。そんな死に関わるようなことを、さも遊びでやっているかのように母は笑って言った。流行るとは何事なのだ、一体。
「さぁて、水路はちょっと危険だしねぇ」
「ちょっとじゃない。それに服が濡れるならあたしは侵入することに反対だ」
「わかってるわよ、私は弥撒ちゃんの母親ですからねー」
 そこで母親気取りされては困るが、自分の性格を熟知している母ならそんなことはしないだろう、と思った。
「で、一番手っ取り早いのは塀に登る、ってことなんだけど、どうやってあそこまで上りましょうかねぇ……っと、あら。いいところにロープが☆」
 と、真利亜は背中に隠していたロープを出して弥撒に見せる。
 ……笑えねぇ、お母さん。
「最初っからそのつもりだったんだろ」
 妙にご機嫌な母に舌打ちをかますと、冷ややかに見下ろされる。そして口元には、あのニヒルな笑みが蘇ってきた。
「だってぇ、これが一番得策だと思ったんだモーン」
「……今時いい大人が『モーン』とか言わない」
「はいはい、お行儀の悪い所は弥撒にそっくりですよーだ」
 って、あたしはお母さんと同レベルなのか。
 それはとても悲しくなる事実である。以後こういうことには気をつけねばならない。

「それはいいから、森に侵入するわよ」
 ぶんぶんとロープを何回か回し、投げたと思うと森の中の木のひとつに、見事に引っ掛けることに成功した。
「すごい……」
 普通は訓練しないで出来るような業ではないはずだ。それをいとも簡単にやってのけた母に、弥撒は驚愕を隠せない。弥撒は誰もが重宝するほどの運動神経を持っているが、母ほどではないと自覚しているのだ。真利亜は一児の母とは思えないくらい、怪力で運動神経が良い。その上十六歳で弥撒を生んだ、現在三十二歳という驚くほどの若さなのだ。まだその運動神経が活かされているといってもいいぐらいである。誠に、尊敬する。

「はい、弥撒。いてらっしゃい」
「は?」
 その驚きの反面、弥撒は怠け面になって真利亜に笑われた。
「何よ」
「お母さんも行くんじゃないのか?」
「はぁ? お母さんは行かないわよ。大怪我負っているのに、森探索とかしちゃったら傷が開いちゃう!」
「ンな訳ないだろ! 完っ璧に治ってたじゃないか!」
 残っているのは痕だけだ。確かそのはず。
「やーだよ。後遺症残っちゃってんだから、ますます酷くなっちゃう。あーいたたた……」
 そんな体で先ほどロープ振り回していたのは誰だよ。
 弥撒はため息をついて、塀の向こうへと続くロープの端を掴んだ。こうなったら意地だ。行かないと決めた真利亜の心は弥撒よりも強いのだから、敵うはずがないのだ。
 満足そうにあのニヒルな笑みを続けたまま、真利亜は忠告した。
「弥撒、夕方までにはここに戻ること。夜になると閉じ込められちゃうからね」
 そのときにはお母さんも弥撒のこと放って置くから。
 そんな顔でさらりと言われると正気か、と思えてくる。母とは思えない言葉に聞いて弥撒は驚くしかなかった。
「お母さん?」
「弥撒ならやってのけるよね? 捕まっちゃう、なんてヘマしないわよね?」
 後は母が笑うだけだった。
「私の子だもの」

 何故そこで『アキの子だもの』と言わなかったのか。それについて少しだけ弥撒は考えてみる。

――きっとあそこから逃げようとして、お母さんだけが捕まらずに逃げ切れたんだろうな…。

 アキという名の父親は、その後どうなってしまったのだろうか。




 森の中は昨日と同じく、まるで樹海を思わせた。校長の言う事が本当なら、この森は大切にされているはずなのに、鬱蒼と茂って、手入れが怠っているみたいだった。こんなにも酷いのなら、月曜日に校長に言った方がいいだろう。川以外にも掃除の場所が増えるのは嫌だが、時間が増えるわけでもないだろうし、こんな乱雑とした森が歴史ある神名木学園の大切なもののひとつ、と挙げられるほうが好ましくない。
 本当の樹海だったなら今自分が何処にいるのか分からなくなっているところだが、幸いにも方位磁石が壊れるような気配はない。しかし、いくら潜入したからといって目的地が見えないのでは意味がない。塔なのか古城なのかよくわからない建物はここからでは何処にあるのかわからないのである。

「南の方角から、校長室から見えた位置はやや北東で、さっき森に入るところは門の所から数百メートルから離れていたから………あぁ、ややこしい」
 一旦立ち止まり、近くの石を手繰り寄せて地べたに書こうとするが、殆ど歩かれなかったその地面は落ち葉に覆われていて、書くのは無理だった。どうせなら門に近い所から入ればよかったのだ。そうすれば校長室の位置から近いのだし、方角がわからなくてもここよりは人々の出入りのある門付近ならば地べたを利用して書く事が出来た。
 無性に腹が立ち落ち葉を払おうとすれば、横から草が伸びてきて顔に傷がつく始末である。仕方なしに、弥撒は地べたを使わず頭を捻りに捻った。
「あぁ、つまり東北東、ってところだろうか」
――正直、地理分野が一番苦手なのだが、放っておいてこのまま歩いてしまえば迷子になるのは確実である。

 そこまで考えて弥撒はぴた、と動きを止める。
 ………まて。
「あたし、さっきまでどの方角に向って歩いていたんだったっけ」
 手の中の方位磁石は数回回った後、少し揺らぐだけで沈黙を守った。方位磁石が数回回ったのは弥撒がパニくって動いたからであり、その後方位磁石が指した方角は、少し前まで目指した方角とは言い切れなかった。それならば周りの風景を見ればいいのでは、と見渡しては見るものの、同じような木の並び方に自分の頭が混乱するばかりである。

 迷子になっているんじゃないか、もう。




「くそっ……」

 また逃がしてしまった。
 殺してしまわなければならなかったのに。

 逃げた女は、黒い艶やかな髪をなびかせて、その姿はまるで男を誘い込んでいるようだった。この樹海のような森に当てもなく走るのは無謀だと思うが、それでも女の選んだ選択肢は賢明だといえるものだろう。
 そう、逃げなければ目の前の男に無惨に殺されるだけなのだから。
 しかし、男の方は大きな誤算をしてしまった、と舌打ちする他なかった。自分よりも力の弱い女だからといって甘く見ていたのがいけなかったのだろう。完璧な、計算ミスだった。
 自分を誘ったあの女は、外の人間であるはずなのに、自分よりも『エデン』のいろいろな情報を持っていた。それを嫉んでしまったこともミスのひとつかもしれない。あの女が知っていることを利用して、誘ってきたときに知らないフリをして近づこうと思ったのだが、女は途中で男の企みに気づき、逃げた。おそらく自分の正体までわかってしまったのだろう、と男は思う。そうでなければあんなに顔を引きつらせることはなかっただろう。伊達に自分の噂を汚してはいない。好きで広めているわけでもなかったが。

「まぁ、いいさ。逃げられるのは今のうちだからな」
 男は目を青く光らせ、笑う。
「後で地獄を見せればいいだけの事」

――それまで、俺の獅子と思う存分、遊ぶがいいさ……。

 木の上から見下ろす風景は、少なくとも男にとって救いにはならなかった。それだけが、世界の全てなのだ。

 それが、『勇者』の称号を持つ者の運命――……。




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