04.母の傷と思い出


「ただいま」
「おかえりー」
 少し間延びのした声が聞こえ、弥撒は普段この時間にいない母がいるのだと気づく。珍しい、いつもこの時間がお客さんのピークなのに休むなんて。
 弥撒は家のドアを閉めて母の姿を捜した。そして、お風呂から出てくる母を見て、愕然とした。母こと、真利亜は肩から胸にかけて、切られたような怪我の痕があったのだ。
 こんなものは、見た事がない。
「お母さん!」
「……何、弥撒。そんなに慌てて」
「怪我! それ、なんだよ?!」
「あ」
 真利亜は慌てて隠そうとするが、もう遅い。
 弥撒は血相を変えて母親に近づいた。
「いつ怪我した? どうしてあたしに言わなかったんだよ?」
「大丈夫だって、これは学生時代の怪我だから、もう痛みはない、はず」
「はず、ってアバウトだな」
「弥撒に言われたくないわ。……それはそうと、弥撒。お母さん今思い出したんだけど」
 真利亜は少し顔をしかめ、弥撒を見る。
「弥撒って成績悪かったの?」
「……はぁ? 今頃? 普通受験生だった時に言わないか?」
 いや、普通ならば自分の娘の成績ぐらい知っているだろう。それなのにこの親ときたら。
「今頃って…そりゃ今頃なんだろうけど、弥撒が『神名木学園に行く』って宣言したからてっきり頭がいいのかと思ってたの」
「そりゃ、あれだ。えー、その時は神名木学園が進学の名門だとは知らず……」
 ばつ悪くなって弥撒は口ごもる。
 嘘はついていない。本当のことだった。母から父親の在りかを知らされて、少し興味を持ったのだ。
「……自分の娘の成績は知っておいたほうがいい」
「えぇ、今回思い知らされましたもの。先生に言われて初めて知ったんだからね。恥ずかしくて顔上げられなかったのよ」
 真利亜は自分の頭に手を当てた。
「よくこの学校に受かったわね……」

 弥撒は中学校では問題児として有名だった。学校は行かない、そのせいで頭は良くない、煙草も堂々と吸う、関係のない人まで暴行はする、云々……。見た目は今と変わらず委員長の格好で過ごしていたが、これはただの母の趣味でしかない。
 そもそも眼鏡をかけているのには、文字通り弥撒の視力が格段に弱いからである。そして三つ編みにしている腰まである長い髪も、面倒臭くて切っていないだけだ。そのまま長い髪をなびかせてもよかったのだが、口うるさい校則と母親の推薦で三つ編みにしていた。
 だが、その問題児のスタイルも中学校三年までの話だ。正確には中三の夏休みまで、だろうか。そのときぐらいに母から『父親の存在』を知り、母の甘い誘いにつられて父親の面影を探そうと決意したのだ。
「勉強しないと通りそうにもなかったし」
 普段はちっとも勉強をしなかったのだが、このままでは通らないと教師の言葉を真に受けて、そのときからしっかりと勉強をしていた。しかし、今まで放ったらかしにしていた全教科を振り返ればやる気さえ失ってくる。それを踏ん張って何とかこなせたものの、勉強はためておくものではない。去年、受験生として過ごした弥撒の今年の抱負はそれだった。

 だが、中学時代の弥撒の教師の悩みは違うところにあっただろう、と今思う。
 問題児として過ごしてきた弥撒も弥撒なのだが、母の真利亜はもっとひどかった。何せ、『問題児』という言葉を知らなかったのだ。

『問題児? なぁに、それ? 体に問題があるって子のことかしら。脳に知的障害がある子のこと?』

 それを聞いて弥撒もその教師も愕然となった。今まで問題児を知らない母親を見た事がないだけに、教師はショックを受けたのだろう。その娘が問題児だとすれば尚更だ。そのときの教師といったら……。泣いて弥撒に縋っていたことを思い出す。問題児に縋るのはどうかと思ったが、教師の気持ちを分からないこともない。むしろ同情したくもなった。
「今まで弥撒を野放しにしていたのがいけなかったのかなぁ……アキがいたら弥撒はどんな風になっていたのかしら」
 と、頬を少し赤く染めて母は女子のように笑う。その反応に弥撒は目を逸らさなかった。
 どこかで見たことのある母の反応に、少し敏感になる。
「アキ?」
「お父さんのことよ」
「……アキ、か」
 やはり、母がそんな風な顔をさせる原因の人物は一人しか見当たらない。初めてその表情を見たときは「あぁ、こんな表情もするのか」と思いはしたが、最近になってよく出る父親の話題で度々見かけるようになった。
 ドアにもたれかかって、服を着ながら真利亜はまだ頬を赤らめたまま弥撒を見て笑っている。
「お父さんのこと、好きだったんだ?」
「今も好きよ。だって幸せなんだもの。そんなものでしょう? 恋って」
 そんなものだろうか。
 生憎、まだ恋をした事がない弥撒にとってはよくわからない感情だった。
「……」
「……」
 わずかな時間の間、真利亜は弥撒歩み寄る。
 そして、弥撒の髪の一房つまんで、弄繰り回した。
「伸びたわね、そろそろ潮時かしら。切ればいいのに」
「面倒だ。美容室に行けば誰かが必ずって言うほど話しかけてくる」
「そういう仕事なんだから仕方ないわよ。何なら私が切って差し上げてもいいけど?」
「遠慮しておく。不器用な母に任せるほどあたしは馬鹿ではない」
 む、と真利亜は口を尖らせる。
「失礼ね。アキみたいな発言しちゃって」
 べし。
 頭を遠慮なく叩かれたせいか、ジンジンと痛む。相当強く感じられた。
「……お父さんも苦労したんだな」
 少なくとも、弥撒のようにいつも言いふらしていたらもっと酷い目にあったはずだ。
 頭を押さえたまま弥撒はそう呟き、その後母にもう一度強烈な一撃を食らったのは言うまでもない。

――実は怪力だったりするんだな、この母。




「眠い」
 弥撒の限界はもうすぐそこにあった。
 睡眠をこよなく愛す弥撒にとって、眠いという感情は敵である。それなのに、この母は弥撒を寝かしてくれない。
「駄目よ、寝ちゃ駄目!」
「もう限界だ、寝させてくれ」
「駄ー目! 甘かし過ぎたと今さっき思い知らされたんだから、もうそんな言い方しても無駄よ。あっこら、瞼下ろさないで!」
「瞬きも許してくれんのか」
「そうよ、一度弥撒は『夜更かし』と言うものを体験すべきなのよ」
 無謀だ。
 弥撒が夜更かしすることは不可能に近い。今まで必死に勉強したことはあっても、睡眠だけは大事にとっていた弥撒なのだ。もちろん徹夜もしたことはない。
 それほど、睡眠は弥撒の命であった。睡眠さえあれば、ほかは何もいらない。
「あぁ、お母さん、なんで今まで気が付かなかったんでしょう! 夜更かしというものを一度身に知らせることで体に覚えさせる事が大事だったことに! そしてそれは健康に繋がる!」
「……今文章がおかしかった気が」
「ほらほら、弥撒見て! 魚が飛んだわ! 凄いっお母さん初めて見ちゃった!」
 ホームシアターというものが存在する我が家では、ただ今映画を見ていた。明日の学校は休みだ。それを図って母は弥撒に『夜更かし』を持ち込んだのだ。
 しかし、弥撒はそれどころではない。
「……」
 べしっ。
「弥撒、また飛んだわ、あの魚!」
 瞼が下りてほっと息をついたところに再び頭にチョップをくらい、挙句に母の悲鳴に似た奇声だ。安心して寝られるはずがない。
 それよりも、飛び魚の存在さえ知らないという母に弥撒は呆れるしかなかった。
「お母さん、物知らずだな」
「アキと弥撒が物知りなだけでしょうっ? お母さんはいたって普通だわ」
「金持ちの娘は、自分のことを普通とは言わない」
「勘当されたんだから普通と同じようなものでしょ! あ、見てまた飛んだわ!」
 今すぐにでも目の前が真っ暗になることを望んでいる弥撒にとって、興奮状態できゃーきゃー騒いでいる母の声は迷惑千万だ。非常に耳に響く。止めてくれ、といいたくてもそれを止める気配がないことぐらい目に見えていた。言ったとしてもせいぜいその音量をごくわずかに下げるだけだろう。それはちっとも救いにならないはずだ。

 『川と海の生き物たち』という、いかにも興味が失せる映画を見るのには原因があった。
 何故か、母が見たいと言ったこと。
 それを知った弥撒はわざわざ取り寄せてもらったのだが、それが運のツキだったらしい。親孝行とはいえ、自分に被害があるようでは失敗だ。次は恋愛映画を持ってこようかと考えるが、それも無駄だ。
 弥撒がそれを嫌うからである。
 恋愛ごとに疎い事もあってあまり内容が伝わらないことも原因のひとつなのだが、母が「むがむがのきー!! ってなるのよ、感動のシーンとか!」という意味不明の理由のせいで願い下げとなったのだ。
 と、急に真利亜が弥撒の肩をバンバン叩く。
 痛い痛い……。
「弥撒、弥撒ーー!! 水鳥、はじめてみたわっ!」

――水鳥。

『覚悟を決めなければいけない』

 校長の言ったことが、瞬間に木霊する。
 何の覚悟なのか。何故、覚悟をせねばならぬのか。

『いつか、死ぬ覚悟をな』

――どうして死ぬ覚悟を?

 校長の言うことは、弥撒の頭では理解できなかった。そしてあの鳥小屋もどき、『城のような建物』を思い出し、さらに訳が分からなくなる。
「――そういえば、お母さん。お父さんは学園の森にいたのか?」
「……弥撒、何か分かったのね?」
 先ほどまでの騒ぎようは何処へ消えたのか、真利亜は目を細めて弥撒を見た。
「アキは……森にいた、というか……」
「あそこには変な建物があるらしい」
「そう……。弥撒、確かあそこの清掃場所になったんだっけ」
「正確に言えば、川付近だがな」
 さらに正確に言えば、今日は目にかかるはずの用務員がいなかったため、門付近で掃除をしており、あの建物を見ていない。あれは、校長室の窓から見えたのだ。

「そうね、あれは……川は、とても有難かったわ。川が汚れると私たちは不便で仕方がなかったのだから」
「……どういう意味だ」
 母はにこっと笑うだけだった。

「明日はちょうど休みなのだし、その森へ侵入してみますか」




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