「申し訳ありません、ヨール様」
アル・フェイは白くて丸いものを持って話しかけた。はたから見ると一人ごとを呟いているようにも見える。
「逃げたか、思ったとおりの反応じゃのう」
ふぉっふぉっ、と丸いものからいきなり声を上げて笑っているのを聞いてアルは呆然とする。特徴的な機械音のノイズがくぐもって聞こえにくいものの、誰が出ているのかは一目瞭然だ。
炎の都、ダンディアム。
この都は、隣の水の都とは違って共和制であり、その一番上に当たる役職の元帥を務めているのがこのヨールだ。皆同等な立場にいるのだが、ヨールだけは特別だった。昔からこの都の核となっていたヨールに逆らう人はいない。
かといってヨールが恐ろしいのではなく、ただ尊敬する人なのだと無意識に思ってしまうのだろう。アルも以前からヨールだけには頭が上がらなかった。
アルはベッドに腰を落とし、話すことに集中する。
「……ジムから連絡があり、あの子は本部場に入ったみたいです。そこからは手分けして捜したほうがよいのではないかと」
「しょうがない、ジムがその場所に突き止めるとは思えぬからの。わしが出るとするか」
「場所がわかるのですか?」
「なんじゃ、近くにおるぞ? ジムはここがわからんのかね?」
アルは唖然とした。
ジムはきっと運が悪いのだろう。いや、運というよりも日ごろの積み重ねが悪いのだ、きっと。常に第六感に身を任せているヨールと違ってそういうことにかなり疎い。
「では、ジムに連絡いたします」
「いや、構わん。ジムに任せると日が暮れてしまう」
「あの、……私の勘ではジムは二階を捜してそうですけど、そこから響く音からして一階にいるのでは」
「その通り。さすがじゃの、ジムが二階へ上がって行くのも見たぞ」
本当に行動の読みやすい男だ。アルは小さくため息をつき、窓を見やる。日はまだ高いが、これからジムだけが捜すとなると空は赤くなってくるに違いない。
ダンディアムの夕焼けは、眩しいほどの緋色に染まってゆくのだから。
「ロビーの隣の小さな部屋じゃ。そこに女の子はおる」
「何をするつもりなのでしょう」
そう聞いたものの、だいたいは見当が付く。
「隠れてジムから逃げるつもりじゃろう」
そうだとすれば、たとえジムが少女を追いつめたとして、また逃げられるということだ。追いかけられると逃げてしまう人間の本性。ジムはその所がいまいち分かっていないらしい。ジムに任せるよりかは、ヨールが少女に話しかけたほうが逃げられるということはないだろう。
「お、そうじゃった。名前はなんといったかな?」
「リカ、と名乗っていました」
リカと同じ名前。
かの昔に、ここに訪れてきた戦友。
名前だけでなく、顔も同じでまるでリカ本人のようだった。
ただ違っていたのは、以前いた世界を覚えていると言うこと。昔いたリカは何もかも忘れて、ここへときた。そしてルネの眷族として何の役目も果たせず、元の世界へと帰ってしまったたった一人の親友。
――――もう、14年も昔のことになるだろうか。
「そーかそーか、あの子と同じ名前じゃったか」
「……ヨール様、あの子は、リカはやっぱりリカなのでしょうか? 私は、どうしたらよいのでしょう? なにより、ジムは――」
「あの子がリカだったとしても、ここにいる記憶はないのじゃろう? それが全てじゃ。たとえリカがリカだとしても、何も覚えていなければそれを責める必要はない。それは酷すぎるじゃろう。昔、あの子が犯した罪は絶対に消えることのないものじゃ。それを忘れているのならそのままにしておこうではないか」
「でも私は、ジムがあのままにしておくのは可哀想だと思ったのです。ヨール様は知らないでしょう、リカがいなくなったときのジムを。私は、ジムをどうすることも出来なくてそのまま後ろから見ていたのですよ? 慰めもせず、声をかけることすら憚れて……――」
「アルのせいじゃない。ジムのせいでもない。誰も彼もが自分のせいにするのはおかしいとは思わぬか?」
「……」
「大きな罪を犯したリカのせいでもない。あれは罪と呼ぶより宿命じゃ。リカはその宿命から一時背を向け、再び向かい合おうとして元の世界に返ってしまったのじゃ」
神妙な顔をして聞いていたアルは、突然はっとした。
ヨールは、何もかも知っている素振りだった。ジムさえ知らないリカの事情を、ヨールは分かっているのだと確信した。
やっぱり、とアルは心の中で苦笑する。
ヨールに知らないことなどひとつもないのだ。素性の知らないルネの存在までもが、ヨールの心の中に潜んでいる。それを告げることはきっとないだろうけれど。
「わかりました。リカであろうとそうでなかろうと、リカであることを求めてはいけないのですね」
「聡くて助かる。ついでじゃがの、ジムにソイの部屋に行けと伝えてくれんかの?」
「……? わかりました」
なぜソイの部屋へと指示したのかはわからないが、合流するつもりなのだろう。あとでソイにも部屋にいるようにと伝えておこうか。
「それじゃ、一役買うかのう」
間延びした言葉を最後に、ヨールとの連絡は切れた。
アルは丸い形のした通信機を裏返し、今度は違う人物へと魔力を飛ばした。
人にはそれぞれ固有の魔力を持つ。性格が皆ばらばらであるように魔力にもその者によって個性というものが現れるのだ。その魔力を把握していれば、魔力を微妙に変化させ通信すれば相手に声が届く。ただ相手には飛ばした魔力の違いが解析できないため、名乗らないと誰からの通信なのか分かりにくいのだが。
魔法のある都は便利だと、アルはつくづく思う。水の都は貧相な村が多いからなのか魔力の持たない人間が生まれてきているというし、雷の都は魔力自体が普及されていない。魔力を認識できる人がいたとしてもせいぜい数百人程度だろう。それに比べれば炎の都は幾分と平和で暮らしやすい。
「こちらジム」
魔力を飛ばして届いた人物はジム。今何処にいるのかは分からないが、おそらく見当外れの所にいるであろう男だ。彼はこつこつ、と廊下を歩いているようだった。
……今気づいたことなのだが、部屋の中まで捜していないのでは。
ジムは老人とは違い、少しだけはっきりとした堅苦しい口調。
しかし、ノイズが邪魔するため変わりなく聞きづらいもので、その様子を窺うことは難しかった。
「アルよ、リカはそっちにいないわ」
しばらくの無言。きっと今は眉間を寄せているだろう。
そういう気配が通信機を伝わって流れた。
「どこだ」
「ヨール様が出迎えてくれるみたいよ。そこで伝言があるんだけど」
「なんだ」
「ソイの部屋に行け、ですって」
そこでまたしばらくの沈黙。口を開いたのはアルが先だった。
「会わせるつもりなんでしょうね、ソイと。何のつもりかは私もわからないけど」
「あいつはやめとけと言っておいてくれ」
「手遅れよ。もうヨール様はリカと会っているんじゃないの?」
はぁ、とノイズ交じりのため息が聞こえる。
「私としてはソイだけじゃなく、ジムにも会わせることが正しくないと思ったんだけど。だって無愛想だし、良いことなんかちっともないし、むしろリカを怖がらせたりするんじゃないの」
「うるさい」
「否定しないのね……ならせめて女嫌い直しなさいよ。ソイと同じ性格もって気持ち悪いわよ」
正確にはソイがジムと同じ性格を持ってしまったということだけなのだが。
「わざとじゃない」
「あ、そ。じゃあそう思ってあげる。少なくとも二人とも私に対してはその性癖がでないようだし」
女嫌いの癖に、と毒づく。
二人とも女嫌いだが、アルには平気だという事実は知っている。ジムとは昔からいる幼馴染みたいなもので、慣れているから。
ソイはアルに憧れているから、らしい。他にもあるみたいだが、アルはよく知らない。そうでなくても、好意を持ってくれていることは確かだ。
「ひとつ聞きたい」
ジムが改まって聞く。その声は小さかった。
アルは何、とその次の言葉を促した。
「あの子をどうするつもりだ」
「知らないわよ。私に聞いて分かると思っていたの? 全ての権限はヨール様にあるんだからヨール様に聞いてよ」
「……」
なにが聞きたいのか、アルにはわからない。
ただ、ジムは少し動揺しているようでもあった。
「どうしたの?」
「ヨール様はあの子がリカと同じ力を持っていたらどうするつもりなのだろうな」
――あぁ、ジムはリカが人を殺すのを恐れているんだ。
正直、アルもそこは不安だった。
もし、あの少女がリカと同じくして、人を殺めることに躊躇いを持たないのなら、あの子は手を汚してしまうだろう。人を殺してしまうのかもしれない。
元にいた世界に戦争があったとしても、女は戦いに出るものではないことはどこでも同じ。きっとリカも戦いのない世界に生まれていて、平和に暮らしていたのだと思う。この世界に来て初めて戦争をしたとき、こんなにも酷いものなのかと問われたことがあった。
それなのに、リカは人の命を尊重することはなかった。まだ幼い14歳だったからその重さが分からなかっただけかもしれないけれど、人を殺めたときのリカは恐ろしかった。
死神、のような。
あのこの運命がどう傾くのか。全ては――――
「ヨール様次第、よ。これも首を突っ込まないのが賢明だわ」
「そうだな」
またここで話は途切れる。
アルは、先ほどから聞こえた足音が通信機から聞こえなくなったことにふと疑問を持った。
「ジム、あなた今どこにいるの」
「ソイの部屋だが」
「四階にいたの?!」
ここにいる者の寮は二箇所ある。
ひとつは数十階もある本部場のうちの四階と五階、もうひとつは本部場の裏にある、客人用の宿屋である。
ソイの部屋はどこにあるのかわからないが、本部場を出ていないはずなので、四階にいるものだと思っていた。
だが、期待を裏切るのもこの青年の得意技だったということを、アルはこのとき忘れていた。
「いや、五階」
「……呆れた」
「何故」
二階にいるものばかり思っていた。
いくらあの少女が上に上がろうとも、二階で留まるだろうってことを青年は察してくれたのだと。
しかし、それは願うことが出来なかった事が少しアルにとっては悔しい。
「馬鹿ね、こうなったら私もソイの部屋に行くわ」
ジムの「はぁ?!」というノイズ交じりの気持ち悪い言葉をこの部屋に響かせてから、アルは通信をきった。
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