目の前の水は、生きているかのように少女の体に張り付いていた。
実際に水は少女を脅かすものだったが、その水たちは先ほどの水とは違っていた。少女は、自分が泳げるということを思い出して足を動かそうとしたが、水圧のせいなのか動けずに、ただ沈んでいると感じることしか出来なかった。水圧らしきモノから逃れたくても、グルグルと少女の周りに蠢く水が少女を縛り付けている。少女は息をすることも出来ず、ただ目を開けてじっとしていた。
普通、洪水といったら泥にまみれているはずである。しかし、目の前にある水はきれいに澄んでいて、遠くまで見えそうなほどだった。だけど、遠くまで見えそうな透明な水は、自分の口から吐いた白い空気だけしか映さなかった。
頭の中にはパニック状態であるはずなのに、嫌に頭には鮮明な映像を送り出される。それは少女を縛り付けている水とは違って、高らかに笑う美女の姿。少女の世界では見慣れない銀色の髪と紫色の瞳を持った美女だった。
少女を笑っているのか、それともこの成り行きに笑っているのか。その美女は少女の頭にしっかりと焼き付いて離れなかった。頭にいる美女は、少女を助けようとしない。少女を見て笑っているだけだ。
――どうして、助けてくれないの?!
叫ぼうとしても、水の中では迂闊に口を開く事が出来なかった。ただ頭で訴えることしか出来ない。だけど、美女は少女の訴えに耳を傾けた。
『助けて欲しい?』
美女の声はまるで悪魔の囁きのようだ、と少女は思う。人間が死に掛けたときに、それを計らったように現れる幻想の魔物。人を欺き、死に追い詰める悪魔。あまり良いものではないのだろう。
美女は人の形をしているけれど、本当は悪魔なのかもしれない。その悪魔の誘いにのってしまうと、自分はどうなるのだろう。
――でも、私はまだ死にたくない。
『生きたい? それとも、逝きたい?』
――言わなくても、判っているくせに…。
だんだん目が朦朧としてくる。それでも美女は急ごうともせずに少女に笑いながら語り続けた。
『そうね、では私が助けてあげましょう。あなたは大事な〈地眷属〉ですもの』
――……早く、助けて! 早く!
もう、意識が朦朧としていて、全て吐き出した空気が泡となるのを見届けようとしても無理だった。
――あぁ、死ぬんだ。そう思った時、体にあった違和感がなくなったのを感じた。あの美女が言うことを聞いてくれたのか。少女は口に手を当てて、けれどもう息が続かず、動くこともままならない。
途端、地響きが聞こえた。
ゴゴゴ、と水が左右に動くのを感じた。それにつられて少女の体もガクガクと揺れる。
『――ルネかッ……! 何故邪魔をする?!』
美女の切迫とした声を聞いたのが最後で、意識がなくなるときには男が二人、見えた。
ふと気が付くと、真っ白な壁が見えた。汚れのない、無地の白。少女は無意識にそこに手を伸ばし、そこで自分の体が動かないことに気が付いた。
――お母さん、動けないよ。
声に出したつもりが、ただの息になっている。おかしい、私って何かの病気になっていたっけと考えを巡らせ、やっと自分が溺れていたことを思い出した。
どうやら、自分は寝ているようだった。壁と思っていたその無地の白は、きっと天井なのだろう。動けないのなら自分は寝ているはずなのだから。
「あら、おはよう」
その声に少女は横に首をずらす。そして、少女に近づく気配に気がついた。
30歳前後の美女といっていい。綺麗なエメラルドグリーンの瞳に少女を映して、優しく声をかけてくれる。くねくねと編みこんだ三つ編みの髪をいじっていた手を少女の額に当て、熱はないわねと安心したように少女に笑いかけた。
綺麗なエメラルドグリーンの瞳と白人のような肌からして、この女性は外国人に違いない。家にいたはずの少女はそこで何故か溺れていたのだが、通りすがりの彼女が助けてくれたのだろうと判断する。流暢に話す外国人がどうして自分を助けてくれたのかはわからないが、きっとそうなのだろうと思い込むことにした。
ふと、少女は美女の後ろに青年の視線を感じた。
こちらは緋色の焼けるような目で、美女と同じく肌が白い、華奢な体をしている。だが、華奢な体に筋肉がついていたし、遠くにいるはずの彼はゆうに少女を見下ろしている。髪も美女は真っ黒なのに対して彼は濃い茶色の髪をしており、窓もないこの部屋でただひとつの光となる壁に飾ってある炎が、彼の髪を照らしていた。
年はせいぜい20ぐらいだろう。なんとなく、少女を凝視している様が青年を幼くしているようだった。
少女はガンを飛ばしているような青年の視線と睨めっこを始めた。故意ではない、自然とそうなるのだ。
「あんたたち、誰?」
少女は張り詰めたアルトの声で青年を威嚇する。決して挑発ではないのだが、それに応じた青年の声も緊張したものだった。
「溺れて死に掛けていたところを助け出したんだ。感謝ぐらいはするものだろう」
「……ありがとう」
不貞腐れて返事をした少女は、一度青年から目をそらし、今度は美女と目が合う。
目が合った途端、美女は少女を安心させるように笑った。あぁ、この人はきっとこういうのに慣れているんだろうな。少女は表情を変えずじっと美女の方を見ていたが、ふと周りを見てみると、ここが怪しげなところだと今更ながらに気づく。
窓のない、いかにも古屋敷のような部屋だ。無地の天井とは違って壁には紋様が描かれていたが、わけのわからない文字も加わっているせいか、見たこともない。そこで少女はここが何処なのかと思い始めた。
「ここ何処? なんで私ここにいるの?」
――助け出しただけならそこで看病していれば良いのに、どうして私はこんな妙な部屋にいるの?
一瞬、誘拐だと考えたが、それにしては妙だ。自分を監禁する気もなさそうだし、かといって彼らは人を殺すような、酔狂な人にも見えない。外国人の考えることは、わからない。何の取り柄もない自分を看病したとしても、得することなどないのに。
美女は少女の目をじっと見つめて、笑った。
「ここはダンディアムの本部場よ」
「本部場? ……ダンディアムって?」
「……ヤマトの三大都市のうちひとつなんだけど、わからない?」
目を瞠る美女に話を振られ、少女は頷く。
『ヤマト』という言葉に日本の倭を思い出したのだが、三大都市とは聞いたこともない。そもそも外国人である彼らの話を聞いてくると、ここが本当に日本なのかも怪しくなってくる。
――だって部屋からして少し原始的のような気がするんだもの。
「わからない」
「ヤマトは世界としか言いようがない。でも、分からないということは、あなた…」
「記憶をなくしたか」
容赦ない青年の声が響いた。先ほどと変わらず容赦ない声だった。
「何を言っているのっ! 私は記憶をなくしてなんかない、全部、ちゃんと覚えてるわ。私はこんなところで生まれたんじゃない、地球という世界のなかの日本で生まれたの。こんな辺鄙なところじゃないんだから!」
それを聞いて美女と青年が固まる。ゆらゆらと揺れていた壁にある炎も、それと同じく止まる。
先ほどからの流れで行くと不自然な動きだ。少女はそう思った。
「……あなた異界から来たの? そうなのね?!」
美女は少女の体を預けているベッドに手をつけた。
ギシッと鈍い音が部屋に響く。優しかった美女が変貌して、というのは大げさなのだが、目をいっぱい開けて凝視される。
そして少女も美女を凝視した。
「……異界って……ここは…」
少女はここが地球ではないのだと悟った。
やけに物分りが良いわね、と自分でも思うくらいの諦めようだった。実際、ここが地球だと説明出来るものはひとつもないのだ。むしろ彼らやこの部屋は、日本にあるものではないと断定できるのだから。
美女と青年はそんな少女の様子を見て顔を見合わせた。青年はまるで驚愕を隠せないといったところで、すごい睨みを利かせながらこちらに歩んでくる。
「お前は……リカか?! ――何故っ、……何故今頃になってのこのこやってくるんだ!」
青年が少女に近づいていく。
少女はその剣幕に怯え、肩をすくめた。――何故、と聞きたいのはこちらのほうだ。どうしてこの男は怒るのだ。自分は何もしていないというのに、ただ異界からやってきたというだけなのに。
まだ距離があるものの、ベッドはドアとは正反対の部屋の隅っこに置かれているため、逃げることは不可能だった。
「な、なんなのよ!」
少女が訳がわからないといった風に美女を見る。だが、美女は顔を青ざめて自分を見ている。まさか、美女も彼のわけのわからない言い分を信じているのだろうか。それはいくらなんでも酷すぎる。ちっとも自分には身の覚えがない出来事を語られても、自分はどうしようもないのだから美女が守ってくれないと。
青年の、少女が恐れる行為にやっと気付いた美女は、止めようと必死に割り込む。
そして青年の右手をつかんで無理やり後退させた。
「待って、ジム! ――この子はリカじゃないわ。だってそうでしょう? 門はとっくに閉まったのよ! あなたも見たはずよ、その瞬間を」
何とか間違いであると気づいた美女が青年を説得しているその隙に、少女は慌ててベッドから降りる。言わずもがな、少女は逃げようとしているのだ。こんなところに長居してはいけない、そう思って。
美女からは死角で見えていないようだが、青年の視線はずっと少女に当てられている。右腕を上げればそれにつられて一緒に視線が動きそうなほど、睨みつけられている。
少女はその視線を感じながらゆっくりと部屋の反対側であるドアのほうへ行こうとした。
「じゃあこいつはなんだ? リカではないという証拠があるのか? こんなにも似ているというのに」
「あなたを覚えていないのが何よりの証拠でしょう」
「では、見た目はリカなのに記憶は違う人のものだと?」
失礼な、と少女は思った。
少女自身はそのリカではないと思っているのだ。少なくとも、あの青年や美女は会ったことがない。
「わからないわ。そんなこと今までになかったから、……でもね、もしリカだったらここにいたときぐらい覚えているはずなの。だって仲間だったのよ? 忘れられるはずがないじゃない。私はリカの親友だったのだし、あなたはリカの……」
「お前の口からは聞きたくない」
「仲間だった、それだけは確かだわ」
仲間、という言葉に少女はピクッと体を震わせた。
仲間……どこかで聞いた言葉なのだ。自分が溺れているときに耳にしたような気がする。夢だったのかもしれないし、現実だったかもしれない。
だけど、自分にとっては仲間という言葉は無縁なのであまり気にすることはないと、そう思い込んだ。
少女が不自然にその言葉で微かに動いたのを青年は見逃さなかった。
「でも、リカなのかもしれない。異界の門が開いたのがティング川であるのなら、閉じていったのも川なのよ? 時代を経て、また開いたのかもしれない。それにヨール様が仰っていたのでしょう? 『ルネの神に愛されている』と。異世界に来たのなら誰もがルネの神になると聞くけど、そうでない人もいるってこと、ジムにはわかるはずよ」
「何が言いたいんだ?」
「リカだけど、リカじゃないのよ。リカはルネの神に愛されていなかった。あなた、知らなかったでしょう? リカはあなたにだけは知られたくないみたいだったから」
青年はまた目を丸くした。初耳だ、とぼそり呟く。
「ここは私の頭に任せなさいよ。少しだけ時間を頂戴。そうしたら望みの答えをいつか必ず出すから。それに、ヨール様は、過去の少女ではないと思えって仰っていたのでしょう?首を突っ込むことは、ヨール様を反することになる。大人しくしているのが妥当だわ」
そうでしょう? と美女が青年を宥める。少し厭味にも聞こえるが、それは美女の本性なのだろう。
悔しげに青年は美女を睨んだ。
「お前も反するなよ」
「お生憎。私は忠告など受けていないわ」
そうだったな、と青年はぶっきらぼうにベッドに座り込む。そこではじめて少女がベッドにいないことを気付いた美女は、少女を探し当て最初に聞かなければならなかった質問をしようとしていた。きっと名前を聞くんだろうな、と少女は思ったが、美女が言う前に青年が口を開く。
「さっき、俺らが言い争っていたときにリカという名前が出た。それはわかるだろう?」
少女はドア付近にいたが、まだ逃げる気配はない。それをわかって青年は質問を投げたのだ。
コクリ、と少女が頷く。
「なぜ否定しなかった? お前がリカじゃないのなら、それは声をあげて否定するところだ。それが出来なかったのなら今否定してもかまわないぞ?」
しかし、少女は否定しなかった。
否定できなかったのかもしれない。目線を青年に当てたまま、動こうとはしなかった。
「では、聞く。お前の名前はなんだ?」
青年は睨み付けるというより、じっと見つめるように少女を見た。
そのとき少女は少しだけ顔を青ざめたが、それきりだった。
数分くらいたってから、少女は答えた。
「里架(りか)よ…」
美女はそのときに納得する。否定しなかったのは、リカ自身だったからなのではなく、同じ名前を持つ少女だったのだ、と。
「やはり……異界の者ね。ここではリカとは名乗れない」
里架は美女を見据えた。
――ここは私のいた世界じゃない……。それなら、どこにいけば元の世界に戻れる?
さっきまではどこかで信じていたのだ。ここが地球であることを。本当はちゃんとした日本で、この部屋に『ごめーん、これドッキリなのー』と、友人や家族が現れることを願っていた。彼らは本当は良く出来たロボットで、この部屋は手の込んだ作り物と信じたい。額に触れた美女の温もりも、睨むような青年の視線も、嘘だと信じたかった。
でも、その願いは叶わなかった。
―――――ここが夢である限り。
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