「また来たのか。飽きぬな、お前は」

 矢彦と初めて会ってから、一週間が経った。
 この一週間、毎日会いに行っているため、矢彦の中での桜の印象はただの顔見知りから知り合いへと昇格されたらしい。無関心な瞳ではなく苦笑交じりの表情が、その証拠だ。

「あなたの兄がいちいち邪魔してきて瞑想しようにも集中できなくて困っている。どうしてあなたと閑はこんなにも性格が違うの」
「閑はお前の兄でもあるだろう」
「……認めたくない」

 そして桜も、矢彦に対する印象がガラッと変わった。次期当主の座を狙っているのではないかという懸念は、すぐさま崩れ落ちた。矢彦本人は全く興味を示さなかったのだ。
 そもそも彼には牢屋から出る気がないようだった。閉じ込められているのが嫌なはずなのに、本人は「することがない」と言って、だらだらと牢屋の中を過ごしていた。
 この日もまた、桜は牢屋へと通った。入り口で立ち止まった桜を見て、矢彦は苦笑した。

「俺のどこが面白いかは知らぬが、よくここへ通っていられるな」
「……今日は冷えるから、暖かいものがいるかと思って」

 桜は用意していた毛布を取り出し、矢彦に差し出した。牢屋にも寝所はあり、毛布もあるのだが、見る限りそれは薄そうで風邪をひかないのだろうかと懸念していた。
 桜は木の格子の間から毛布を突っ込ませたが、それを押し返そうとする手があった。

「……」
「別に、慣れている。それにその毛布は質が良すぎる。見張りに取り上げられるだろう」
「見張りには、私が言い聞かせた」
「へえ、お前が?」

 口は笑っていたが、眼は瞠っていた。桜のことをどういう人物像を描いているのかは分からないが、矢彦にとってはそれが意外だったらしい。

「私はこれでも次期当主だから。長老の言いなりではあるけれど、だからこそ皆は私の言うことを聞く」

 少しの間があった。矢彦は驚いていたが、今は少しも笑っていない。頭の後ろに回していた手を床につけ、姿勢を正している。矢彦のだらしなかった態度が一変して、周りの空気が変わったのを感じた。

「閑は? あれも一応候補だろう」
「そうだけど、長老たちは相模に縁ある私を祭り上げようとしている。本人も当主になる気はないと言っていたし」

 なんとなく、閑が矢彦を当主にしようとしていることは伏せた方がいいと思った。矢彦にその気がないのは分かっていたが、閑の行動を矢彦に知られたくなかった。矢彦がそのことを知って、当主になろうと決心することはないと思っているが、当主になろうとした矢彦を敵に回したくなかったからだ。
 ところで、と桜は話を切り替えた。

「矢彦は何故ここにいるの?」
「お前は知らなくても良いこと。どうせいつかは知られるだろう」
「あなたの存在すら知らなかったのに、その理由を教えられると思う? 長老はまだ私が言いつけた通りに動いているのだと信じている。だけど私はもはや長老の言うことは信じられない。長老が矢彦をここに閉じ込めたというなら、私は矢彦をここから出してあげたい」

 向かい合った相手の目が光った。
 桜は一瞬、それを望みを求める光なのだろうかと思ったが、どうやら違ったらしい。

「反抗期だな」
「何なの、その気味悪い笑みは」
「閑に似ているだろう」

 桜は顔をしかめた。
 ここのところ毎日通っているため、閑と矢彦の顔の区別はついていた。だが、奇妙な笑みを見せる矢彦のその表情は、まるで閑を相手にしているかのようだ。矢彦はそうでもないが、閑には苦手意識を持っている桜だった。

「今まで従順だったから反抗する時だって人生のうちにはあるものなの」
「それはそうだがな」
「矢彦にはそれがなかった?」

 そう問われた矢彦は苦笑している。
 ふと、矢彦が当主になったら、という考えが頭の中をよぎった。閑があれだけ強いのだ、きっと片割れである矢彦も強いのだろう。そうすれば里は今よりも落ち着くのかもしれない。
 そこまで考えて、はっと桜は慌てて首を振った。そうだとしても、桜は当主の座を渡す気にはなれなかった。長老の反抗、柳への慕情――だけどそれよりも桜は当主の座そのものに執着していた。閑が矢彦を当主にさせようとする想いよりも、はるかに強かった。否、強くないといけない。
 桜は長老や親が示した当主への道しか知らない。
 なんと無様なことか、と桜は心の中で嘲笑した。長老に逆らうと言っておきながら、自分は長老に逆らえず、当主になれと指で示された道に従うことしかできないなんて。
 だけど、自分がその道を外れ、当主でない大人になるとは、考えてみたこともなかった。

「矢彦」

 矢彦なら、自分の未熟な思いに気付くだろうか。
 そして柳のように、優しく包んでくれるのだろうか。
 桜は、このとき決心した。

「五日後、私の元服が行われる。その時に矢彦も参加して欲しい」
2009.03.14

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