それから、何日か経ったある日。雪が積もった寒い朝だった。
 桜は今までずっと続けていた稽古をぱったりとやめてしまっていた。何故か、いつにもまして集中できなかったのだ。寒い日ならなおさら稽古に励んできた桜だったが、一面真っ白な風景を前にして、急激に心まで冷やされた気分になった。

――――今日は、いい。明日に今日の分をやれば……

 桜は縁側に座り、白くなったいつもの稽古場を眺めた。
 今年の、初雪が降った時には屋敷を走り回ったのを思い出す。あれは確か、長老の一人の息子が戦に負けて、おめおめと帰ってきたのだった。この里ではある戦に一人だけ出して、初めて一人前と認められる。大抵は隣との国の諍いで始まった、小さな戦が主だ。長老の息子も、そんな規模の戦だった。それなのに健闘せずして帰ってきた息子を、長老は処罰してしまった。
 今、この里の地位は危うい。
 以前相模が滅ぼした地域も含めて、今まで奪ってきた領土を隣の国に取られようとしているのだ。その諍いにも負けてしまった。流れは今、向こうにあるのだ。
 隣はかなり強国だが、こちら側から攻めればなんてことはない。だが、この里に相模を凌駕するほどの力を持つ者はいない。強い者がいたとしても、せいぜい相模の持つ力の半分だろう。稽古に励む姿を見る長老の表情から、そう察した。長老は欲しているのだ、相模と同じ力、否それ以上の力を。だからこそ血族である桜に期待しているのだ。

――――閑も、またその双子の人も相模の血族なのに。

 血族はおろか、実の息子だ。相模の従兄弟の子供である桜とは違って、受け取る性質が多いはず。力を欲するなら、柳の血を恥じる前に閑やその片割れを戦に出すべきだ。
 だが、長老は頭が堅い。桜がそう言ったとしても閑を戦に出すことはしないだろう。誰も閑の強さを知らないのに。桜も知るはずはなかったけれど。

――――もし、閑が私よりも強かったら……? 相模よりも、強かったら……

 当主の座は、間違いなく閑のものになる。隣国との戦いで勝利すれば、長老たちも手が出せないだろう。そしてかつて相模が治めた里のように、この里は丸く収まる。

――――もしそうなったら、私の立場はどうなるのだろう。

 稽古用にと着た薄着のせいか、温められていない体が、よりいっそう冷たく感じられた。
 この雪が溶けたら。
 ふと、桜は思う。
 今朝、里と隣国の境で諍いがあったと報告があった。領土争いに、また血が流れるかもしれない。
 ゆっくりしている暇はない。長ければ今年中に、短ければ……――


――――この雪が溶けたら、戦が始まってしまうかもしれない。








「雪の下に何かあるのか?」

 いつまでぼんやりとしていたのか、時間がたつのを忘れるほど雪を眺めていた桜に声をかける者がいた。
 閑だ。
 閑は桜と最初に会ったときと同じように、薬師の格好をしていた。

「別に。ただ稽古場が埋まっている。どうしてそんなことを聞くの?」
「雪に眼つける奴なんて初めて見たからさ」
「……そんなに雪を見ていたかな」
「ああ」
「ふうん……」
「……」

 言われてみれば、そういえば雪しか見ていなかったと思いだした。だけど雪を睨みつけてしまうほど、眼を厳しくしたつもりはない。
 そこまで考えて、閑にからかわれたのだとようやく気付く。

「からかったなっ」
「気づくのが遅いぞ?」
「分かりにくかったんだよ!」

 そうだ、あれで分かれという方が珍しい。閑は分かりにくく桜を馬鹿にしているのだと分かっているから、桜はからかわれたんだと理解したのであって、普段は分かるはずもない。
 調子に乗った閑は、さらに桜を苛める。

「雪を見つめる奴っていったら、恋煩いなもんだろうよ」
「違うっ」
「ついさっき女にふられた奴が、向こうでお前と同じようなことをしていたぞ」
「えっ……?!」
「さーて、九卿の相手は誰かな? この間から始まっている戦から帰ってこない紀伊か? お、それとも俺だったり? ……それとも、頑固な長老とか、隣国の野郎だったりしてな」

 全部、正解だった。
 恋煩いではないものの、煩っているのは確かで、その内容はすべて閑が言ってしまった通りだ。
 閑に負けてしまったのがなんとなしに悔しく、桜は小さく言い返す。

「……恋じゃない」
「半分正解ってところだな。思い悩んでいるのは確かだろう?」
「……」

 桜は静かに目を伏せる。
 敵わない、閑には。閑のことを探るよりも、いっそ閑に全てのことを話してしまいたかった。
 たとえそれが、閑が知っている事実であっても。

「私は女だ」
「……ま、そんなこったろうと思ってたよ」
「所詮、女は当主になれない。だから長老どのから男になれと言われた。長老どのは、相模と同じ力が欲している。両親も同じ。みんなが私に男の道を歩めと言って、男の私の手を引っ張る。だからここにいる」
「……」
「私が当主にならなければいけないんだ。なのに……柳の目はそんなことしなくてもいいと、言っているようだった」
「母が?」

 閑は、突然柳の名前を出されて戸惑っているようだった。それも当然だ。柳とは、初めて会った日以来、一度も会っていない。そんな桜が柳を忘れられずにいる、というのはある意味恋よりも厄介なものだった。

「閑は親の愛情を知っているでしょう」

 桜は知らない。
 あんなに優しい目をした母親の顔なんて。

「長老どのに殺せ、と命ぜられた。でもできなかった。柳は、私を息子として見てくれた」

 数時間しか共にしなかったが、柳の傍は温かくて、悲しかった。ほんの一瞬だけそれを共有できたことが、桜は微笑ましかったのだ。だからこそ守りたい。

「だから私は男でいるんだ」
「……お前。当主になるの、やめろ」

 温かな気持ちでいた心が、閑の一言で急に冷えた。

「どうして。閑は当主になる気がないのでしょう?」
「……俺には、ない」

 意味深な言葉に、引っかかりを感じた。
 まさか、閑の片割れが。

「……閑のもう一人の人が、当主になりたがっているとでも?」
「それはないな。俺以上に、あり得ない」

 向かい合った閑は、桜が手に持っていた刀を奪った。あ、と桜は声を上げるが、一瞬にして刃を向けられてしまった。
 早かった。
 早いというよりも、鮮やかだった、と表現した方が確かかもしれない。どちらにしろ、閑のふるまいは、只者ではなかった。

「お前が全てを知って、それでも刃向かうのならば俺は迷わずお前を切る。そうでなければ俺は目的を果たすまでだ」

 そう告げた閑の目は、真剣そのものだった。
 全てを知る、とはどういう意味か。

「お前が一体何のために守るのか、そして何に刃を向けるのか……考えなおしてこい」

 閑はある一点を指差した。そこは、何の変哲もない建物。だが、桜は知っている。長老から絶対に足を踏み入れるなと言われていたため、それとなくどういうための建物か理解したのだ。
 桜がその建物を指差す理由が完全に理解するより前に、振り返る。
 閑は、冷静だ。その顔からは何も分からない。何を考えているかすら。

「あそこに、お前が望んだ答えがある」


 ――あそこは牢屋だ。



 まさか、あそこに閑の片割れが――?
2008.04.07

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