桜が住まうことになった柳の離れは、屋敷からはそう離れていない。もとは相模も住んでたというのだから、きっと当主として遠くに置くことはできなかったのだろう。そして離れのすぐ裏には大きな屋敷がそびえ立つ。屋敷と離れを結ぶ、唯一の道だ。桜がそこへ行くと、武士の格好をした紀伊が立っていた。

「紀伊」

 桜が呼びかけると紀伊は振り返った。
 紀伊はこの里では、血族や武術に関して重要な立場にいる人物だった。実際、四人いる長老の一人が紀伊の祖父に当たるはずだ。そして大きな戦の時も、必ずといっていいほど紀伊が駆り出される。長老たちにとって一番信頼できるのは紀伊だろう。桜が期待された紀伊に嫉妬したことも、少なくはなかった。

「桜、よかった。元気でいるか」
「うん、元気だよ」

 そう答えると、紀伊は安堵の溜息をした。なんとなく、顔が緩んでいるように見えないこともない。
 真面目そうな面をしている紀伊だが、意外と桜には優しいのだ。今回桜が離れに行くときにも、まず紀伊は心配してくれた。そして大丈夫だと告げると、その次には励ましてくれる。それが紀伊なりの心遣いだろう。
 そういえば離れに行くにあたって、よくよく言われていたことがあった。

「ねぇ、閑っていつもあのような感じなの?」
「……あいつに何かされたのか?」
「別に何もされなかったけれど」

 紀伊からは、よく閑のことについて念押しされたのだ。危ないから近づくな、とかあいつは少し変なんだ、などなど。そのころはそんなに危ない人間なのかと危ぶんでいたが、今思えばかなり失礼な言葉である。それほどにまで閑を怖いとは思えなかった。

「閑は危険?」
「ある程度はな」

 紀伊の顔が強張っていく。

「ただ……あいつは変なところで執着しているんだ。いや、違うな。何も執着していないというのが本当のところだろう。だから閑を絆そうとしているこの里から出て行きたがっている」
「この里を?」

 初耳だった。だが、分からないことはない。閑を絆すものがあるとすればそれは次期当主の地位だろう。閑自身はやりたくないと態度に出ている。それならば何故この里に居続けているのだろうか。脱出は難しくても、離れや屋敷から出るのはわけないことだ。
 思索にふけっていると、遠くから紀伊を呼ぶ声が聞こえた。もう行かなければ、と紀伊が言う。

「お前の元気な顔が見れれば安心した。閑には気をつけろよ。じゃあな」

 去っていく紀伊を見て、桜はあることを唐突に思い出した。

「紀伊!」

 呼び止めると、紀伊が振り返った。

「閑は双子だと聞いた。それは本当なのか?」

 一瞬、紀伊が信じられないとでもいうように桜を見た。だが、すぐ冷静を取り戻して言った。

「……誰に聞いた?」
「本人から」
「あいつ……馬鹿じゃないのか……?」

 はて。
 顔をゆがませる紀伊を見て、双子がいるというのは嘘だったのかもしれないと思う。馬鹿だ、あいつは馬鹿だと繰り返して呟く紀伊を見れば、閑は狂言を吐いたのだと勘違いするだろう。
 だが、双子がいるのか問うた時の紀伊の顔。桜は確信した、閑の片割れがいるのだと。

「離れには、その人はいないのでしょう? いったいどこにいるの」
「それは言えない」
「どうして」
「爺から口止めされているのさ」

 桜は、それ以上問いただすことはできなかった。紀伊の爺、それは長老だ。当主の次に偉い人が長老。その長老の命には従わなければならない。
 紀伊は苦笑した。

「閑は天真爛漫だからな。言いたいことは言うだろうが、それをいちいち気にかけなくていいさ」
「でも……」
「桜」

 名を呼ばれてはっとした。紀伊はじっと桜を見ている。怒っているわけでもない、ただ見ているだけ。
 その表情で桜は悟った。紀伊は告げたいのだ、閑の片割れのことについて。だけど言えないでいる。




 閑の片割れ。

 一体どんな人なのだろう。
2008.04.01

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