『お休みよ。寝ることも大事なんだからね。……誰かがきてくれるといいわね』

 もう誰も来なくていいと思った。少女が自分を案じてそれを言ったのはわかったが、ずっと二人でいたかった。少女は自分がそんな風に考えているなんて思わなかったのだろう。『このまま傍にいてくれ』の一言が言えず、ずっとまごまごしていたのに気付いていたのだろうか。
 口で伝えられなかったから仕方なく目で訴えるようにして少女を見つめていた。少女を見ていると、不思議と痛みは癒されていったのだ。そんな視線では気付いたのだろうが、その後の行動で『熱のせい』と勘違いされてしまったようだ。

――――違う、熱なんかじゃない!

 口を開いても出るのは愛しい少女に伝えたい言葉ではなくて、荒い息だけだった。どうにかして伝えたいと思い、ぼこぼことした山道に書きにくいと思いながらも、貴族等が使っていた恋歌を綴った。少女がそれに気が付かずに踏んだときは泣きそうになったのだが。
 しばらくたって、言えなくてうずうずしていた気持ちは穏やかになっていた。それは少女がそばにいたからだろう。少女といられるならもう他はいらないと思った。今ある地位も、友も、金も、すべて要らないと思った。自分の手の内に少女がいるのならば。

 いつの間にこんな気持ちになったのだろうか。こんなに想いがあふれるということになったのはこれが初めてだった。自分は常に自分を押し込めていたし、それをさらけ出す気もなかった。ただありのままの一日を過ごすだけだった。それがあの声を聞いただけでそんな自分の壁が剥がれ落ちてしまった。
 最初、毒を吸い出す少女を見たときは逆光のせいでよく見えなかった。だが、そのあとの少女の声に惹かれたのだ。

『とりあえず私がなんとかあなたを助けてあげるから、その間一切喋らないで』

 そう言われたとき、抵抗しようとして話しかける気が途端に失せた。何かの術かと思いもしたが、目の前の少女が使った気配もない。最初はあせったものの、別にしゃべらなくとも少女は離れることがないのだと思い直して安心したのだった。そして治療ともいえぬ、けれども止血をしてくれた少女にいっぱい口説いてやろうとも思った。そんな考えを頭に巡らせているうちに少女は下着姿となっていて、大胆にも着物を自分のお腹にまいてくれたのだ。
 自分は狼狽して目を逸らそうとしたが、少女の体から目が離せなかった。思えばこのときから既に少女のことを気にかけていたのだろう。気付いたのは少女が薬草探しに行ったときで、獣に襲われないのだろうかとずっとひやひやしていたのだ。
 だが少女はいなくなった。少女が身に着けていた着物と、眠っている間に採ってきたのであろう美味しい実を残して。少女がいない赤い実は美味しいと思わないし、少女が着らなければ意味を成さない、汚れてしまった着物。どちらにしても少女の存在は必要であるのに、自分にとっても少女はいなくてはならない存在となっていたのに、少女はいなくなった。

――――今すぐにでも少女を捜しにいきたい。

 だが、目の前の紀伊がそうさせない。

「成宮様、今ここから出て行きたいと思われましたね」
「急に畏まって気持ち悪いぞ。どちらで呼ぶのか、どちらにするのかはっきりしろ」
「先ほどは九卿様が矢彦と呼ぶのでそれに合わせただけです。普段は成宮様と呼ばせていただきます」
「……勝手にしろ」
「では混ぜて使いましょう。成彦というのはどうでしょう、今ならまだ周りのものに融通が効きますが」
「もういい。やめだ、やめ。なかったことにしてくれ」

 矢彦はため息をついて、力が抜けるのを感じた。もう呆れてものが言えない。これで一応話が成立しているのだから謎としか言いようがないだろう。
 紀伊は満足したのか、大笑いをした。

「冗談だ。だが、本来は畏まらなきゃいけないんだ。俺は臣下で矢彦は君主だからな。それは忍びの掟だ。そして俺の家に生まれついた使命かな。お前だってわかるだろう、俺と同じような立場にいるものな。だから一生俺はお前に、正確には当主に仕える身だということ、お前が一番理解しているんじゃないか?」

 紀伊には滅多にない真剣な顔つきで黙った。矢彦は何もいわず、その横顔を見た。

「そういえば、あの少女を見たといっていたな。どんな様子だった?」
「矢彦の想い人、やはりあの子だったのか」

 矢彦は顔をしかめた。

「知ってて言ったんじゃなかったのか?」
「確証はなかったよ。あの子がお前に近づいたところは見ていなかったから関係があるとは思えなかったんだ。お前にあの子の話をしてやったら、驚いていたようだったからそうなのかと思っただけだ。だが、敵かそうでないかどうかは全然わからなかった」
「敵じゃない」
「そのようだな。あの着物はあの子が巻いたものだろう? だが、あの子は俺を見てから慌てて隠れたという感じだったな。お前を見る目は穏やかだったが、あの子はもうお前に会わないようにしている気がする。でなければ隠れる理由もないだろう」

 矢彦は黙った。紀伊のいうことが正しければ少女はもう目の前に現れてはくれないのだろう。理由はわからないが、それは矢彦にとって辛い。だから、決心をした。

「俺が会いに行こう」

 矢彦の言ったことに紀伊は苦笑して、言うと思った、と呟いた。

「俺は逆らわないつもりだし、矢彦についていくけどな。けど、止めた方が良いと思うぞ。浜が……っと口調戻さないとそろそろ浜が来る」
「そうやって仕向けたのはお前だろ」
「心外だな。お前の体のことを思ってやったのに。恨むなら自分の……」
「成宮様!」

 ばんっと大きい音が響き、すごい形相の顔をした女性と九卿が入ってきた。それはだいたい予想できた出来事だったので驚きはしなかったものの、呆れて女性を真正面から見た。

――――病人のいる部屋ぐらい静かに出来ないのか……。

 そう思いながら。

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