矢彦は暗い部屋の中で目を覚ました。誰もいないのかと思うほど静かで、つい自分までもが音を立てぬようにと息をしていたが、よく考えれば此処は自分の部屋である。誰もいないのは当たり前だ、と思い直してため息をついた。
 だが、ここまで静かなのは逆におかしい。当主が怪我したら周りの女たちは騒がしくなるはずなのに今はそんな女たちの気配さえない。あれこれと考えながら目をつぶっていたが、仕方がないなと起き上がろうとした時だった。

――ズキッ

 上半身、詳しく言えば下腹辺りだが、そこに激しい痛みが走った。
 お腹に手をやると、きれいな包帯がかすかに赤に染まっていた。矢彦は目を瞠って自分の体を見た。黒い装束はいつの間にやら小奇麗にされている簡潔な着物になっていた。
 そのとき、矢彦はやっと少女のことと、少女のおかげで怪我が軽くなったことを思い出した。そして、少女を探せず村に戻され意識を失ったことも。

「――くそっ!」

 近くにある壁を強く叩く。八つ当たりだとわかっていても、自分はこうすることでしか悔しさを紛らわせることができなかった。

「……紀伊、殺してやる。」

「今のでその言葉は計386回かな。そろそろ実行してもいいと思うよ。墓を作るのは面倒くさいけどね。」
「九卿(きゅうけい)……」

 いつのまにやら紀伊ではない男が入ってきて矢彦は眉をひそめる。その男は矢彦より幾分と若い。子供といっても通じる年齢だ。
 その少年はごく自然に笑った。

「矢彦、恋煩いなんだって? 紀伊から聞いたよ。なんでも一目ぼれなんだとか。本当なの?」
「紀伊、紀伊を引っ張り出せ」
「駄目だよ、おとなしくしていなきゃね。じゃないと浜を呼ぶよ」
「勝手にしろ」

 九卿はかすかに目を瞠らせて、笑んだ。

「珍しいなぁ、矢彦が逆らうなんて。浜には優しくしていたのに、そんな態度していたらすぐ浜にばれちゃうよ。ま、矢彦はそれでもいいだろうけど……やっぱり病気なんだね、恋という名の」

 矢彦は否定せず九卿から目をそらした。図星であるため、言いようがなかったのだ。
 そう、これは恋だ。まぎれもなく、一目惚れから始まった恋。ただの女の子がこんなにも愛しく思えたのはこれが初めてだった。
そしてどうしてそのことが九卿に分かってしまったのかも分からず、途方に暮れていた。九卿はそんな矢彦の反応に満足して、目を輝かせた。

「そうなんだね?矢彦、恋したんだね? ……その人、どんなひと? 志穂のような、やんちゃで可愛らしい子? それとも柳のような大人? 浜のような我が侭娘かなぁ? それとも……」
「うるさい」

 矢彦は追い払うように手を振って九卿を無視した。それでも九卿の興味はそらされず、むしろ注がれていくことになった。

「あぁ、そんなことしたらますます気になるよ。ねぇ、本当にその人はどんな人だったの? 村の人? でも矢彦、村ではなくて戦場に行っていたから違うかな?」
「放っておけ。お前が得することなど何もない」
「損得で聞いているんじゃないのに、矢彦がそんな態度だったら気が滅入るよ。それに、確かに得はしないけど興味があるんだよ。その矢彦の想い人に」
「それなら私がお教えいたしましょうか?」
「紀伊」

 ふすまが開けられ、入ってきた若い男は満面の笑顔で九卿を見た。その顔はからかいが混じっているように見えた気がして、矢彦はますます気分を悪くする。すぐにでもここから逃げたい衝動に駆られた。

「紀伊、まだ矢彦に殺されたくないといって部屋に引きこもっていたんじゃなかった?」
「余計なことは口を紡ぐのが賢いですよ、九卿様」
「でも本当のことだ」
「言って良い事と、いけない事をまず学びください。それより、矢彦の想い人について聞きたくはありませんか?」

 九卿は目を輝かせて紀伊を見た。紀伊が少女のことを話にするのは心底嫌なのだが、矢彦は九卿から解放された気持ちになって上半身を再び起こした。
 まだ痛みはあるが、先ほどのような激しいものではなかった。ゆっくり体を起こした後、気付いた紀伊によってまた倒された。

「九卿様、浜をここに。このまま放っておきますと、想い人の元に駆けるようなので」
「そんなの無茶だよ。それに矢彦はそんな無謀なことはしないよ」
「いえ、愛の力で体は動くものなのですよ。だから、矢彦は恋の病にかかっているといったでしょう?」
「そ、そうなのか。矢彦のためなのだな? かわいそうだが、浜をつれてくるぞ」

 そういって、九卿は矢彦の部屋から出て行った。パタパタと走る様は、まだ子供で愛らしい。
 矢彦は九卿を見守っていると、後姿が去ってゆく少女の姿と重なった。

――――恋の病でも、自分はかなりの重症だな。

 目をつぶっても少女は消えない。だが、いったんそれを追い払って気にせずに言った。

「紀伊、俺の弟に何を吹き込んだ」

 何度殺そうとしたか分からない男は、笑うだけで矢彦の殺意を消した。

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