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矢彦のいる部屋に向ったのはいいものの、足が突然動かなくなって戸の前でうずくまった。全く、矢彦に会いに行こうとしてここに向ったのに、自分は何をしたいのかさっぱり見当もつかない。ただ、このまま矢彦に会ってしまえば私はとんでもないことになるんじゃいかと思った。
いまだに、突然の衝動は収まらなかった。
何かが悲しくてたまらないのに、これで良かったのだと安心する自分がいる。漠然とした感情はそれだけで、ますます募らせるばかりだった。
ただ、これだけはわかる。私は自由になったのだ、と。
かけがえのない何かは私にとってとても大事なもので、ずっとそれに縛りつけられていた。なのに、今はそれがない。心軽やかに、空でも飛べそうだ。動けない今に至るまでは、そうだった。
でも、何を失ったのかも分からず、今はただ呆然とするしかない。悲しくて暴れるしかないのに、矢彦に会ってしまったら傷つけてしまいそうで。いつも見守ってくれたものが急になくなれば暴れてしまうのも無理はないのかもしれない、と私は思いなおした。
――――そうか。
何かを失ったという亡失感は、これだ。
私にとって幸とも不幸とも取れる、あるものを失くしたから。だから、私は暴れるしかなかったんだ。悲しいということを、誰かに知って欲しくて。あるものは失くしてしまったけれど、確かにそこにあったのだと記憶に残したかった。そのために暴れたのだと、今気づく。
私は、何をなくしたのだろう。
それを考えるたびに私は怖じけ、この場から離れようとした。
そうだ、たったこれだけのことで矢彦に頼ろうとしていただなんて、甚だしい。きっと飽きられてしまうだろう。なんて馬鹿な事をしているんだろう、って。
――――戻ろう。
私は立ち上がって先ほどまでいた部屋に戻ろうとした。だが、何かが私を阻み、唖然としてしまった。誰かの手だ。言うまでもなく、矢彦の。
「――どうした?」
ふわりと風に乗るような、この場に相応しくない声の響き。
「……」
「大きな音がして駆けつけたのだが、何かあったのか?」
矢彦はまさか大きな音の原因が私だとは知らないのだろう。俯き、目を伏せる私を心配そうに伺っている気配が感じ取れた。
辛い。辛くてたまらない。
この悲しい気持ちを伝える事が出来たなら、私は幾分かましになるだろうと思った。でも、それで飽きられてしまったらどうしようか。
言えない。
「何でも、ないよ」
何もなかった。そういうことにしておこう。きっとそれが、最善策だ。
余裕のない、皮肉な自分を思い浮かべる。そういう表情しか出来なくても、そうするほかないのだ。
「やだなぁ、何でここに来たりするのよ。私、平気なのにさ」
いたって普通に接しようとした。しようとはしているものの、意識は頭と同じようにはいかない。うまく笑えずにしょんぼりと俯いていると、矢彦に早くもその事情を知らされてしまった。
「悲しいのか?何をすれば悲しみを紛らわしてくれる?」
悲しい、という言葉ではっと顔を上げる。
矢彦は、私が彼方を亡くして悲しんでいるのだと思っているのだ。
本当は違うのに。
彼方が悲しんで悲しくないと思うはずがない。だけど、それは心のどこかで覚悟をしていた事で、容易く思い出の人となってしまったのだ。だから悲しいのとは少し違う。
もっと、悲しいというよりも空虚感が漂っている感じだ。
うまく説明できずに自分の考えに耽っていると、頬を撫でられた。
「そんな表情をしないでくれ……。俺だって、好きであんな事をしたのではない」
「……あんな事って、彼方を殺してしまった事?」
「迦楼羅の願いを叶える。それが全神の俺の宿命。だから俺は逆らえなかった」
「綺羅の願いを叶えたというのね?じゃあ、彼方の死を願っていたのは、綺羅……」
「すまぬ」
申し訳なさそうに矢彦は謝ったけれど、それで今更どうする事もない。彼方は戻ってこないのだ。それに私も、少しは吹っ切れた気がした。何を失ったのはまだ分からないけれど、亡失感の中には彼方が関係していたような気がして、それがなくなった今はすっきりしている。
だから私は矢彦のことを、許せたのだと思う。
「俺は、あの男が憎かった。天華の傍にいて、何食わぬ顔をしていたあの男が、この上なく憎かった。だが、俺には天華を奪おうなど、そんな度胸はない、ひ弱な男だったのさ。こんなひ弱な男に守られたくはないだろう?」
「……関係ないよ。ひ弱だろうが、強かろうが」
私だってひ弱な存在だ。誰かに頼らないと生きていけない。それも、いっぱい迷惑をかけて、邪魔になるほど。私がいなければ世の中はもっとうまくいっていただろうに、そう思った事もある。
そんな軟弱な私を守ろうとするのに、強さは関係ない。私を守ってくれようとしているだけで私は嬉しいんだから。
「俺は嫌だったんだよ。もっと強くなって、守ろうと何回も思った。そうして弱くなることはなかったが……そんな時だ、あの迦楼羅があの男を殺せと、願ったのは」
頬を撫でていた手はいつの間にか背中に回されて、抱きしめられる格好となった。
抱きしめられると、何故か安心する。彼方の時も、同じような気持ちになったのだ。私もゆっくりと矢彦の背中に手を伸ばし、肩に頭をのせた。もう悲しいという感情はなくなった。そこにあるのは大きな亡失感と、絶対の安心。
「俺は、嬉しかった」
ふと影が横切るような気配がして顔を起こすと、矢彦の顔がすぐそこにあった。
何かをされると予感したが、それを拒もうとはしなかった。むしろそれを受け止めようとして、目を伏せた。
最初は触れ合うだけのキス。
数秒も経たないうちに離されて目を開けると、満面の笑顔が目に入った。
「天華が居てくれさえしたら、俺はなんでもする」
だからあの男を殺したんだ、と矢彦は続ける。
不思議と、怒りは感じなかった。いつの間にか吹っ切れたせいなのか、もう彼方に未練はない。ただ私の迦楼羅だったというだけの人だ。恋愛に似た感情を持ったとしても、所詮は違う感情。それよりも私は矢彦の方を愛している。
――――これを恋している、というのね。
私は矢彦の耳に口を近づけ、そっと囁いた。
「私も矢彦の傍に居られたら、とても嬉しいよ」
だから傍に居たいの。
もう離さない、離されたくないから。
だからもっと強く抱きしめる。もうすれ違う事がないようにと。
ひどく嬉しそうな顔をした矢彦を目にして、つい私も自然な笑みを浮かべた。なんてかわいらしい笑顔なんだろう。これからもそれを見られると思うと、とても嬉しくなった。
俄かに玉の事を思い出す。
それと同時に、あの亡失感の謎が解けた。あの『呪』の玉は彼方と私を縛り付けた唯一のものだと、彼方は言っていた。懐に入れていた玉の感触がないとなれば、玉は消えてしまったのだろう。『呪』の玉は彼方が死んでからしばらく私の所にあったけれど、やはり迦楼羅なしでは維持できないらしい。そして玉は壊れてしまった。
その玉が壊れたから、私は大きな亡失感を味わうことになったのだ。
今まで私の存在を支えていたのは、全神という地位があったからこそ。その地位が無くなれば当然、その対価も大きい。彼方がいなくなってしまったことにも悲しく思うけれど、やっぱり彼方と私を結んでいた物がなくなるのも淋しい気がする。これで彼方と関わる事がなくなると思うと――……。
彼方のことを考えていた事が顔に出ていたらしく、咄嗟に矢彦は不愉快な表情に変わった。
「ごめん、もうちょっとだけ。あと、少しだけ、彼方のことを考えさせて欲しいの」
何とか表情を繕った矢彦は優しく背中を撫でるだけだった。
その温もりを感じて、私は思う。
――――私も強く、生きていく。
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