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――――もう逃げない。
何度、そう思っただろうか。自分の行為にあまり責任を感じていなく、やばい、と思ったときにはもう後の祭りだった。だから、その報いとしてずっと矢彦に仕えていくことを決意したのだ。
もう真実を知ってしまったから、あとには引けない。
否、ひいてはいけないのだ。自分が過ちへと導いた過去の出来事を見直さなければならない。そして、反省をして何度も謝った。
目の前にいる迦楼羅にも、以前謝った。
自分がいなければ何もかも終わっていたかも知れない。自分が災厄を産み落としてしまわなければ、全て事は終えていたはずなのだ。
「私は、赤の全神が憎い」
綺羅はそう呟く。承知している、そんな事。どうして憎いの、なんて聞けるはずもない。
「だが、お前も憎い」
涙をためながらも自分を睨みつける。幽鬼も人間と同じように涙が出るのだろうかと、ふと思う。
綺羅はかつての迦楼羅を慕っていた。それと同様に、自分も相模を慕っていた。その関係はとても似ていて、それでも根本的な所は違っていたのだ。
自分には全神や迦楼羅という関係は一切ない。あるとすれば、自分が相模に惹かれたと言う事実だけ。それだけだ。
だが、綺羅と相模は違う。
「私は綺羅さまが憎いわ。なのに、何故わざわざ私にそのような事をおっしゃるのか。それほどまでに憎いというわけでもないのでしょう?」
「私は本来のことをするまで。寄り道など、している余裕などなくなった」
「寄り道?」
「もう私の目の前に現れるな。もし、現れたそのときがあれば」
ぐっと自分の握りこぶしを掴む。自分を否定した綺羅の目は鋭く、まるで体に電気が走るような、そんな衝撃を受けた。
「お前の息子を消すぞ」
『天華、大丈夫?』
七海の声が未だ頭で木霊する。
私が大丈夫じゃないから、そんな幻聴が聞こえるのだろうか?
それとも、わざと聞いているのだろうか?
もう私は、自分がどうなってしまっているかも分からないのに。
柳とは違う召使に案内されたそこは、こじんまりとした書斎サイズの小さな部屋だった。忘我状態にあったわけではないけれど、その部屋に連れて来られた記憶はあまりない。若い女がこちらを気遣う風でもなく、何も喋るような事はせずにここに来た事だけは覚えている。
寡黙な人なんだろうか。
部屋に入ってからふと思った。だけど何も喋ってくれなくて、むしろ私は安心した。今は人の温かみとか感じられても、あまり嬉しくはない。
逆に迦楼羅の肌が恋しい。
人間のような温もりはない冷たい肌に触れたくて、とても淋しい気持ちになった。あの冷たさがあれば私は私のままでいられる。冷静なままの私でいられる。それなのに、私の迦楼羅はいない。
もうこの世にはいないのだ。
このどうしようもない悲しさが、その証拠。
「――彼方……」
――――どうして死んじゃったの?
――――彼方が死んで、何が私のためになるの?
彼方が死ななければ悲しみに襲われることもないし、ずっと安心でいられると思ったのに、彼方はそうでないと言い張った。じゃあ、何で彼方は死ななければいけないのか。
「涙がでない」
きっと、幽鬼になったからだ。涙目になったとしてもそれは頬になかなか落ちてくれない。
落ちてくれないと困るのに。自分が本当に彼方が死んで悲しんでいるのか、分からなくなってしまうのに。
私は部屋の隅に座り込み、自分の頬を撫でる。いつかの彼方が優しくしてくれたように、手の感触がなくなるまで撫で続けた。
「私の手、冷たい」
――――私って、やっぱり迦楼羅になっちゃったんだね。
ビキィィィイン――――
「………っ!」
突如、私はとんでもない感覚に陥れられた。
何かの感情に駆られ、咄嗟に手元にあった小物を壁にぶつけた。だけどそれだけじゃ収まらない。
――――まだ、もっとよ!
何だろう、この亡失感は。
亡失感だけじゃない。なんだか、全てが壊れてしまったかのような。
私は狂ったように手元にあるもの全て壁にぶつけた。小物は派手な音を立てて床に落ちる。壁にはそこだけがへこんで、私の目に生々しく映った。
自分の血が全部逆流してしまったかのように、全部が狂う――。
『この部屋の隣は当主さまが使っておられます。何かあったら尋ねてくるようにと――』
寡黙だと思っていた先ほどの女の声が甦る。何も言っていなかったと思っていたが、そう言えばそのようなことを言っていたような気がする。
隣の部屋に、矢彦がいる。
瞬時ためらって、私は隣の部屋へと向かった。
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