|
「あら?」
この部屋からは耳にした事ない音を聞いて、柳は顔をしかめる。部屋には天華がいる。そのほかには誰もいないはずだ。それに、何だろう、この音は。何処かで聞いたことのあるような……そんな音だった。
かん、かん、と一定の早さで音が繰り返される。
部屋にそのような音を出すものなんてあっただろうか。柳はその考えを否定する。いや、なかったはずだ。
――――では、この音は何なのだろう?
あり得るのは天華が起きたということ。それでも、音の原因が分からないのでは胸がすっきりしない。
柳は一度天華の名前を呼んで、いつも通りに返事が返ってこないことを予想しながら襖の外で待った。すると、音が急に止んだ。やはり天華が起きていて、何かの作業をしていたのだろう。音の疑問を抱えながらも柳は戸を横に滑らせる。
「……天華」
天華は上半身だけ起こして、布団の中から庭をじっと見つめていた。視線の先は、大きな松。
やはり、起きていた。柳はひとまず安心する。自分の髪の色が変わったと衝撃を受けて暴れたりするのだろうかと思っていたのだが、その心配はいらなかったらしい。その前に目の色が違っていたのだから今更なのだろうが。
「天華、先ほどの音は何だったのでしょう?」
天華の向く視線に柳は戸惑わなかった。何故天華が一際大きな松に目を向けるのか、その理由を知るはずがないからだ。ただ庭で一番目立つからそこに目を向けているのだろう、としか思っていなかった。
天華が今どう思っているのか、そこまで配慮出来るはずもない。
「わからない」
「……わからないのですか?」
「聞こえたの? 今の音」
少しびっくりしたような表情で聞き返される。聞こえないはずがない。襖とはいえ、区切られた空間の外まで丸聞こえだった。えぇ、と柳は曖昧ながらも頷く。
「呼んでいるのよ」
「誰が、ですか?」
「私が」
「…何を?」
そう聞くと、天華は口を噤んで再び松の木に視線をやる。そしてひとつ、深呼吸をした。
「わからない。もう遠くに行ってしまった人だったのかもしれないし、今は同じ幽鬼になってしまった誰かを呼んでいるのかもしれない。ただ、何も考えていないのに呼んでいるのよ。だけど私には何もないから呼んでも誰も来ない。……もう、必要されることがなくなったの。誰も来なくて当たり前なのよ」
ぼんやりと座っている天華は、まるで違う人のように見えた。覇気のない、人形のような存在。だけど、口調はしっかりとしているし目の焦点が合わないということもない。意識だけがどこかに消えてしまったように、自我が取り去っているような気がしたのだ。
「天華っ!」
不安になった柳は慌てて天華の手を掴む。
すると、またもや天華は驚いた表情で振り向き、今度は柳の視線と直接合った。
「見えるの? 私が、見えるの?」
「見えますよ?」
柳は訝しく天華を見た。どうしてそのように言うのか。見えて当たり前じゃないか、と思ったのだ。
だが、柳の腕を縋るように掴んだ天華の目は、怯えていた。
「私幽鬼なのに、彼方が死んだという記憶もなく幽鬼になったのに、……どうして?」
そういえば、と柳は今更思う。
何故幽鬼姿の天華が見えるのだろう。前とは違う髪の色に驚きながらも、疑問に思わなかったところだ。目が赤いというところには以前もそうであったからあまり驚かなかったが……。
柳は、静かに深呼吸をする。
「天華、知っておられます?まだあなたは幽鬼ではないのだと思います。あなたの左目はまだ、黒い」
「……!」
今顔を見合わせて初めて気付いた所だった。天華の目は片方だけだが、黒い。少女の迦楼羅は死んだはずなのに、髪は変化したが少女は迦楼羅へと進化することなくその姿を保っている。
その理由は、柳が知る由もない。だが、心当たりはある。
「天華殿は前と同じく、ここから出ないようにしてください」
「ど、どこいくの?」
「天華殿が呼んだ人とこれから会ってきます。しかし天華殿は会ってはいけません。ここにいてください」
訳が分からず柳を留めようと強く掴んでくる天華を置いて、柳は部屋から出た。
「また何かを企んでいるのですか」
「どうしてそう思うのじゃ?」
天華は皮肉にも、無意識に綺羅を呼び出してしまったのだ。かんかん、と一定に繰り返されたあの音は、過去柳が聞いたいたものに酷似している。あれは迦楼羅同士で使われる引き寄せの音だったのだ。まだ柳が若かった頃に聞いたその引き寄せの音は、よく相模が使っていたものだった。相模が死んでからもう聞く事がないと思っていたのだから、柳は慌ててしまう。
天華が迦楼羅を呼んだということは、綺羅を呼んでしまうことと一緒だ。天華が知っている迦楼羅は綺羅しかいないからだろう。
「あなたのことは色々な人から聞いています。そして私の記憶からも、あなたはいつもそのような考えを持っていらした。……それまでにも、あの少女が憎いのですか?」
柳がそう聞くと、傲慢な態度を取っている綺羅は眉をひそめた。
「憎い、そう言えばすっきりするのか?」
「……あれからもう何百年も経っておられます。怒りはもう収まって良いでしょう?」
「その収まった怒りを再び呼び起こしてしまった当の本人が何を言うか!」
あぁ、やはりそうなのだった。
自分は、とんでもないことを仕出かしてしまったのだ。
それでも、自分は。
「私は後悔しておりません。こうなってしまった運命を、恨んだりはしません。でも、綺羅さまは? 綺羅さまは、相模さまを殺してしまったこと、後悔なさっていませんか?」
「私は」
「自らの手で殺してしまったこと……どんなに辛かったのでしょう。かつて愛した人に、この自分の手で殺してしまうことは……?」
「……」
綺羅は俯いて、口を噤んだ。見えないが、そのような気配は感じ取れた。
かつて全神だった綺羅と共に過ごした日々。それらを柳が忘れるはずもなかった。そして、自分の愛した人がその綺羅に殺されていくのを見たときも。
「綺羅さま……」
「後悔、しているに決まっておるだろう! だが、そのまま過ごしていれば、私がどうにかなってしまいそうだったのだ! せめてっ……!」
「……」
柳はその次の言葉を想像する。
――――せめて、お前がいなければよかったのだ!
そう、自分さえいなければ、迦楼羅と全神の縁は終わっていたのかもしれない。それほど相模は重要な人物に当たっていた。
だけど、自分は?
――――せめて、綺羅さまがいなければ私は、もっと幸せだった。
息子の矢彦も、きっとそう思うだろう――。
back
// top
// next
|
|