「矢彦!」

 誰かが自分を呼ぶ声が聞こえる。
 でもそれは自分を優しく介抱してくれた少女ではない。少女は自分の名前を知らないはずだし、何よりもこんな低い声はしていない。少女でないのならわざわざ起きる必要はあるまい。
 そう思って頑として目を開けなかった。だが、自分を呼ぶ声がいっそう大きくなり、しまいには体を揺さぶるので断念した。

「矢彦っ……!」

 しぶしぶ反応すると、やはり目の前にいたのは下着姿の少女ではなく、自分を同じ黒い装束を着た男だった。

――――紀伊? ……どうしてお前がここにいるんだ。お前は待機していたはずだろう。

 声に出して言おうとしたが、言えないことに今気が付いて中途半端になった口を閉じた。あの少女のときと同じパターンだ。
 そんな様子に紀伊は怪しく思ったのか、喉に手をやる。そしてやっと気が付いたようだ。

「毒……いや、術か? 声帯を真っ先にやられたのか? それとも故意か……? どっちにしてもよく無事でいられたな」

――――あの少女が助けてくれたんだ……。

 一言も言えなかったのでお礼がいえなかった。だが、見ず知らずの自分を当たり前のように手当てをしてくれた。嫌がりもせず、一生懸命に。

――――会いたい。

 正直にそう思った。
 ここにいれば、少女はやって来るだろうか。戻ってくるだろうか。こんな自分に触れてくれるだろうか。また、無邪気な顔で笑ってくれるだろうか。
 しかし、今気付くのだった。寝る前には間近で笑っていた顔が、今ではどこにもないことに。
 慌てて周囲を見渡す。
 目の前には紀伊。右は茂った草と澄んだ川。後ろは自分がもたれかかった木と、その奥には山。左は煙のたった戦場。下は、おそらく腕いっぱいあるであろうたくさんの赤い実。最初は自分の血かと思ったが、しばらくして少女が摘んできたのだと理解する。
 赤い実を抱えて少女を探そうとして立ち上がると、お腹の痛みと紀伊によって倒されてしまった。そしてあまりの痛さに矢彦は紀伊を睨んだ。

「阿呆、腹刺されているのに動こうとするお前がいけないんだ。よく見たら手当てされているが……一旦村に戻ろう」

 しかし、矢彦は抵抗した。紀伊の腕を払い、蹲った。駄々こねる子供のように、ちゃっかりと不貞腐れて。紀伊はありえなさ過ぎる矢彦の行動に驚いて一瞬だけ動きを止めたが、それでも矢彦の手首を離さなかった。

「何だ? 死にたいのか? お前に限ってはそれはないと思っていたが……もしや未だに戦に呼ばれたことを根に持ってんのか? しょうがないだろ、負け戦だとわかっていてもそれなりに世話になったやつらだったんだからな」

――――そんなこと、どうでもいい。

 一刻も早く少女を捜したかった。たとえ体が動かなくても引きずってさえ探しに行きたかった。今里に戻ると、微かな少女の匂いでさえわからなくなってしまう。
 声さえ出せれば目の前の男はわかってくれるはずなのに今はそれが無理なのを矢彦は恨めしく思った。どうにかしてわかってくれる方法はないのか。
 暴れながらそんなことを思っていると、紀伊はようやく懸念を抱いた。

「さすがにお前がここまで抵抗するとは思わなかったぞ……というか、珍しい。ここで何かあったのか? この辺は特に変なものはなかったが」

 矢彦は少し落ち着いて、紀伊の顔を覗く。その造作はどことなく急かしているようだ、と紀伊は思った。
 紀伊はその造作どころか矢彦の行動ひとつひとつが怪しく思え、眉をひそめていく。そして今更とでもいうように、矢彦の腹に、大雑把に巻かれた浅葱色の着物に気付いた。

「これ、上等な布だな。絹だ、絹! 包帯代わりにするのはもったいないぞ」

 矢彦はうなだれた。何故そこに目が行くのだろうか。最近質素の生活を勧めていたのがここで裏目に出てしまうとは、何とも悲しい。
 見下ろした着物は自分の血で汚れていて、ぬるぬるとして気持ち悪い。それでも生理的な悪寒をしなかったのは慣れと少女が着ていた着物だからだろう。
 ふと、紀伊は気付く。

「絹といえば、先刻上等な下着を身に着けた女がいたが」

 気のせいだったかな、と言い終える前に矢彦は顔を上げ、目の色を変えた。掴まれたはずの手首はいつの間にか紀伊の肩を揺さぶっていて、口は勝手にパクパクと動いていた。
 だが、悲しいことに声も出せないし、この男は読唇術も習おうとしない人間なのだ。
 だから意味など通じるはずもなく。
 だが、紀伊は笑った。少なからず、矢彦は意味が通じだものだと思って安堵の表情を浮かべた。力を入れていた手首を離し、完全に暴れるのをやめた。
 この隙を、紀伊は狙っていた。

――ドスッ

 傷に触れるか触れないかのところで強打された。つまりは、鳩尾に。

――――お前っ……!

 紀伊は笑って矢彦の体を担ぎ、矢彦が完全に失ったのを見た。そしてため息をつく。

「恋煩いの当主を連れて帰るのはわけないんですよ」

 頭をかいて、紀伊はため息をつく。この男をこんな状態にさせた少女はいったいどこへ行ったというのか。見かけたのはただのハッタリでもなく、本当のこと。少女は自分が矢彦と話しているときにどこかへ消えてしまったらしい。
 厄介事になったな、と思う。少女を捜すことは何の障害もない。すぐに探し出せるだろう。しかし問題は矢彦の体だ。このまま放っておけばいつかは死んでしまう重傷を負っているのだ。

――――後で何か言われそうだな。

 紀伊は、原因の少女が向かった方向とは全く逆の方向へ歩き始めた。

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