「脱走開始じゃ」

 突然訪れた人の第一声はそれだった。

「……脱走?」

 どすどすと綺羅らしくない歩き方で私の部屋に入ってくる。綺羅は少しむっとした表情になっていた。この数日何があったのかはわからない。

「ねぇ、調べものは終わったの?」
「彼方が待っておるぞ」

 私の言葉を気にしないとでも言うように一蹴して、意味深なことを言った。だけど何のことなのか、さっぱりだ。
 私は綺羅に腕を引っ張られるまで、混乱する頭を押さえ込んだ。

「ほら、歩け」

 よろ、としびれて崩していた足を起こし、先ほどの問いについて考える。
 彼方が待っているということは、つまり彼方が自分が戻ってくるのを持ってくれていると解釈していいものなのだろうか。そして私を連れ出す役を、綺羅が買ったのだろう。
 そこまで無言で考えると、あることを思い出した。

「でも、出ちゃ駄目って何回もいわれたのよ、綺羅さん。先日も柳さんに『どうせ帰る場所がないのだからあきらめなさい』って……。それに、わざわざ出る理由もないような気がして……」
「そなたは彼方が好きか」 「まぁ、そりゃ、うん。……って、え?」

 いきなり振られた彼方の話題につい、私は即答する。だけど、咄嗟のこととはいえ、彼方が好きなのには変わりはない。相手が違う人だったなら、きっと肯定はしなかっただろう。
 しかし、綺羅は不思議な人だ、と思う。
 私は結構頑固で、本当のことを言われると否定してしまう。だけど綺羅相手ではどんな本音でもポロって言ってしまいそうなほど、嘘がつけない。ありのままの、生まれたばかりの自分を見られているような、そんな気分がする。

「なら、良い。それで十分な理由であろ」

 満足して頷く。勝ち誇るような笑みを見せて、そしてまた私の腕を引っ張った。
 人間ではない幽鬼だからなのか、触れた手は雪のように冷たい。

「だから、ここから出ちゃったら怒られるの」
「出てしまえばもう会うこともなかろうに」
「……でも、矢彦も、柳さんも困ると思うわ」

 私がそういうと、綺羅は顔をしかめた。引っ張る力は緩めないで、私から顔を逸らす。

「綺羅さ……」
「彼方が好きなのであろう? その彼方がそなたの帰りを待っておる。そなたの迦楼羅が、じゃ。脱走するには十分な理由とは思わんか」
「でも、ただ好きだけなら、留まる理由も一緒だわ。私にとっては」

 その途端、まっすぐの白い髪が横に滑る。
 振り返った綺羅の目は、驚愕の意を表していた。

「他に、ここに好きなやつがおるというのか」

 ビックリしているだけではないのは、声が震えているからだと、私は感じた。そのほかの感情は読み取ることは出来なかったけれど、絶望とか、そういう類に入るものなのは確かだ。
 そんな風に発言した覚えはないけれど、そうさせてしまっていることに私は落ち込んだ。ここに来てからこんなことばっかりで嫌になってくる。

「わからない、よ。これが恋って呼んでいいのか私には理解できない。今まで好きだった人がいなったから、私はちっともわからない。ただ、今までになかった感情とか、気持ちとか、そんなものがここらへんで疼いているのは確かなの」

 引っ張られている腕とは反対の右腕で心臓を示した。

「それが恋って呼ぶのか分からないから。でもこれだけは分かる、と思う。彼方に対しての感情と、矢彦に対しての感情とはまるで違うんだ。天と地の差、みたいに、くっきりとそこで分かれている。同じような感情だけれど、その二つは全然違うってこと、……この数日で気づいたよ」

 ねぇ、どっちを恋と呼べばいい?
 そう聞くと、綺羅は悔しそうな顔をした。そしてポツリと、憎い、とそれだけを呟いた。

「……綺羅さん?」
「矢彦とは、相模の息子か」
「その相模って人を知らない」
「………柳の主人か」

 こくん、と頷く。直接聞いたわけではないけれど、この間聞いた話でそのようなことを言っていたと思う。

「やつはそなたのことを好んでいたな」
「…そのようね」

 数日前、この屋敷に来てからすぐに告白されていたことを思い出す。どうしてわたしなんかをとずっと思ってきたが、まだ返事は返せていない。まだ矢彦のことを、どう思っているのかよくわからないのだ。嫌い、ではないとは思うのだけど。
 腕を引っ張るのではなく、掴んだままの格好で私たち二人はその場所から動こうとはしない。いや、私だけは動こうとしなかったのではなく、綺羅からの蛇睨みで動けなかった。
 たがて、綺羅が口を開いた。

「やつがそなたを好むのは、そなたが全神であるから」
「――え?」

 不意に、耳をふさぎたくなる。でも腕を掴まれて、片方だけの腕で耳をふさいだとしても丸聞こえなのは分かっていた。でも、何故か、その先は聞きたくなかった。

「忘れたのか? 彼方から聞いたのであろう、全神の話を」


『皆は全神に惹かれる』


「そなた、そんなことも思わなんだのか? 不思議に思うことはなかったか? ――やつは、きっとそなたが全神であるから、」
「やめて」




――――……そうか、そうだったんだ、やっぱり。

 私が、全神だったから。

「……わかったよ、もう。出よう、ここから」

 自ら放した腕を、今度は私が握る。




「――今すぐ」




――――皆、全神である私を求めるの……?


――――誰も、全神じゃない私のことなんか気にかけてくれない。




 それが、悔しくて。私は力いっぱいに唇をかんだ。

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