――――なんてこと……。

 柳は部屋を出てすぐ蹲った。

――――綺羅さまが、綺羅がここに来るはずがないと思っていたのに……。

 しばらく経ってから背後でまた二人が喋っているが、今度はそれを聞く余裕がない。――こんなにも、驚いているのだから。そして同時に悔しく思った。

――――綺羅は何をするつもりなの?

 おそらく、天華に自分が迦楼羅であることを告げたのだろう。細かく言えば天華の迦楼羅であるはずはないのだが、迦楼羅と名乗れば全神は自然とその人を慕うようになってくる。たとえ全神が意識しなくても、迦楼羅はそれをよく認識している。何度も全神と迦楼羅の輪廻を繰り返し、そしてその記憶を持っているとしたら尚更だ。
 そして、綺羅は天華の前に現れた。

――――綺羅さまは、また誰かを統べる存在となってしまった。

 それもおそらく、誰かの全神である天華と名乗る少女を。

 ――許せなかった。彼女は、矢彦のものだ。だから矢彦以外のものに天華を差し出すにはいかないのだ。その相手がたとえ迦楼羅だとしても。

 矢彦に誠意を尽くすことは、今の柳にとって『詫び』でしかない。過去、全神であった相模の秘密を知ってしまった、柳の精一杯の『詫び』。そしてその秘密を知ってからは、数少ない矢彦の理解者となった。
 現に、天華の世話を任されたのは柳本人だ。信用の置けない人に世話を任せるほど、大馬鹿者ではないのだから、当たり前だろう。ただの人間ならともかく、今まで有りもしなかった矢彦の想い人なのだ。適度の緊張は持つものの、やはり喜びをもたずにはいられない。
 天華とは、浜とは違って世間を無視した本当の恋愛。嬉しいとは思うが、当主という地位を持つ矢彦にとっては要らない感情でもある。1人の女性のために里が危機に陥る可能性があるからだ。その点について、理解者を除く周りの人たちはあまり喜ばしく思えないだろう。だが、そうだとしても柳にとって嬉しいことには変わりはない。

 でも、と思う。

 矢彦がただ全神に惹かれているだけだったなら?
 全神は迦楼羅に惹かれて、皆は全神に惹かれる。
 ただの昔話が本当のことだったなら、――矢彦が天華を好きになっても、おかしくはないだろう。

――――だって、わたくしも相模さまのことが好きだったのだから……。

 相模さまはすぐに亡くなってしまわれたけれど……。








「矢彦、天華はもう少し違う部屋に入れるべきだよ。あそこではいつ脱走してもおかしくはない」

 体を鍛えなおしにした訓練にかたをつけ、一休みをしているところに、寒そうに身を縮めながら九卿がやってきた。
 矢彦は九卿の示す意味がわからず、首をかしげる。

「どういう意味だ」
「天華、雪が降っているにもかかわらず庭に出ているんだ。隣の部屋だから僕に丸聞こえだよ」
「うるさいと思ったなら、そう本人に言えばよかろう。何故俺に言う」
「そうじゃない!」

 矢彦でも可愛らしい顔立ちをしているなと思う九卿が、不機嫌に地団太を踏む。どこかの我侭な少女を思い出し、少し笑えた。

「何笑っているんだよ! もう、笑い事じゃないよ。だって、天華が誰かと喋っているんだよ、矢彦。誰かと思って庭を見てみると、天華1人しかいないし、寒さのあまり幻覚でも見たんじゃないのかなぁって思ってしまうんだ……」
「心配は要らない」

 数日前、いつものような溌剌とした表情のない顔をしていた柳のことを思い出す。柳は矢彦に、迦楼羅と話していると報告してくれたのだ。

――――迦楼羅は誰にも見えない、神の存在。

 昔話には興味がない矢彦でも、そのくらいのことは知っている。やけに詳しい柳の話を、小さい頃から聞き続けたのだから、自然と口に出るほどにはなっている。

「これから会いに行くさ」
「宣言したらどう? もう逃げられない、って。逃げたとしても行く場所なんかないだろう、ってさ」

 ややムキになっているのか、早口交じりでそう言った。そんなこと、矢彦だって分かっているつもりだ。

「お前が熱込めて言う必要はないだろう……しかも俺に」
「なら僕の部屋の隣ではなくて、自分の部屋に連れてこれば良かったのに……! 積極的にそう動いて欲しかったよ」

 九卿は行動型だが、矢彦は本来冷静にものを見る正確なのだ。これまでが積極的過ぎたのだから、今は慎重に動くべきだと考えたのだ。

「しかし」
「天華は父上のようにはならないだろう、少なくとも……。そして僕は」

 それまで握り締めていたこぶしを広げて九卿は、矢彦の手を握った。


 汗ばんだ、やけに熱いその手が今の時期に不似合いだった。




「矢彦を、もう二度とあんな不幸な目にあわせたくはないんだ」

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