捜している人の名前を呼びながら川付近まで来ていたときだった。何かが聞こえたような気がして樋都は立ち止まり、一点の方へじっと見つめた。
 捜していた少女は川の縁にしゃがんでいた。その背中はなんともいえない感情が詰まって見える。声をかけるのには簡単だったのだろうけれど、なぜか声が掠れてしまいそうだと思った。

「天華」

 声は掠れなかったものの、少女の何かを言っている言葉にまぎれて少女の耳に届かなかった。

――――どうしてだろう。

 それは唄だった。
 こんなにも、胸がつぶれるくらい、綺麗な唄だった。

「天華っ」

――――どうして。

「……天華!」

 自分でもわからないくらい、少女の名前を呼び続ける。少女の名前が呪詛のように、呼べば呼ぶほど心がきつくなって息するにもためらってしまうほど。
 それでも体は動かなかったし、少女は振り返らなかった。
 もしかしたら、天華は気づいているのかもしれない。わざと振り返らないようにしているのかもしれない。

「天華、聞いて」

 少女は歌うのを止めようとはしなかった。それでもいい。聞いてくれればそれでいいんだ。
 樋都は目を伏せて、自分のことを語りだした。

「私ね、夢を見るの……。とても幸せな夢よ。山賊の皆が仲良くして、はじゃぎ回ったり冗談を言い合ったり、村の端にいる女たちに恋したり子供を生ませたり。今も十分幸せだけれど、今よりももっと幸せの仲間たちが見えるの。この地にずっと住まなければいけない巫女としては、とても嬉しい光景なの――あぁ、私は巫女なんだけれど」

 ぴた、と唄の途中であるにもかかわらずに天華は歌うのを止めた。しかし相変わらず振り返ろうとはしない。
 樋都は気付いていないように続けた。

「でもね、そこには見慣れた彼方がいない。山賊の長は雷のままなのだけれど、何処へいっても彼方は見つからないの。昔一緒に遊んだ川端も、冬をしのぐのに使われた山の奥にある岩穴も、気が向けばいつも座っていた木の上にも、何処にもいない。そこで私はやっと気づいたのよ」

 冷たい空気が流れてきて、今が冬の初めの季節だということを思い出す。天華のことや戦のこととか、今年は忙しいと思っていたのだから季節の合間を忘れていたのだろう。でもそれは悪いことではない。
 些細なことでも忘れるほど忙しいということは、樋都にとっては嫉妬心を忘れることと一緒だったから。

「彼方はここで平和に生き続ける人じゃないの」

 深いため息とともに現れたのは白い息だった。

「それは天華も一緒。二入はここにいるはずがないんだわ」
「それは、」

 高いとは思えない少女の澄んだ声が樋都の耳の奥まで広がる。

「私がよそ者だってことでしょう?」

 歌っていた人物と同じとは思えないほど、自分を傷つけるような言い方をしていた。

「私ね、雷が好きなの」

 そのまま否定しても少女がわかってくれないことぐらい感知できた。それならば自分の悩みをぶつけるまでだ。

「でも雷は私に触れようとはしないし、むしろ私から遠ざかってついには私ではない妻を作ったのよ」
「卑怯だね。お頭は樋都の事が好きなのに」
「……どうかしら。皆が言うの、お頭は私の事が好きだって。じゃあなんで雷はそれを言ってくれないの?」
「樋都がお頭のことがすきなんだって、気付いてないからでしょう?」
「多分、違うのよ。お頭は臆病者なの。私の影に隠れて窺うことしか出来なかった小さな子供みたいで」

『お頭、この山賊を任せるよ』

 いつだったか、これを言ったとき、やがて空気に溶けて、消えていった。
 雷はそれと同じようにして自分から離れていき、そして自分も遠ざけていた。

 樋都は、知らぬ間に涙を流した。
 心が苦しいわけでも悲しいわけでもないのに。

「可哀想な樋都、でもそれももう少しの辛抱だよ」
「天華……」

 振り返った少女の顔は、巫女の顔をしていた。誰かに恋をしてしまって、苦しんでいるようで、それでもそれを覆い隠すような辛い表情。

――――かわいそうな人。

 どうしてか分からないけれど、樋都は目の前の少女が違う人のように見えてならなかった。
 声の質も顔の形も背格好も天華のものであるのに、雰囲気が違う人。誰なのだろうか。

「でも、迦楼羅はもっと可哀想な人。独りで死んでしまうのよ」

 私がずっと傍に居たかったのに。




 心の中は少女である声で大きく、そして痛く響いていた。

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