chapter 1   さよなら日常 ようこそ非日常 5


 転校生と目を合わせたあの時。
 あたしの中で落ち着いていた何かが蠢いた感じがした。
 かすかな感触だった。
 痛感のようで、快楽でもあった。
 少なくとも、殴られた痛みが快感につながる、なんて変態じみたものじゃない。
 もともと違う別の感触が右と左から一斉に放たれたような。
 ずいぶん昔に味わったことがある、と頭のどこかで察した。
 それと同時にある場面の一部がありありと甦ってきた。

 高く聳え立つ霊山として名を馳せられた地。
 記憶にあるはずがないのに、そこがあたしの生まれたところだと直感した。
 あたしは小さかった。
 小さい頃まで山に篭っていたというのだろうか?
 あたしがいるのは木も生えない、高く雪が積もるような山の一角。
 地肌の全てが雪に覆われ、そんな山にできた小さな洞窟。
 洞窟には氷柱からぽたりぽたりと少しずつ溶かされてできた水溜りと、水を温かくしてから飲もうとして火を吹くあたしだけ。
 ってあれ? あたしってなんで火を吹けるの?
 見渡すとお父さんとお母さんが見当たらない。
 なによ、あの馬鹿親たちは昔こんなところであたしを置きっ放しにしてたってこと?
 それともお母さんが昔冗談で言ってた、あの「クルはコウノトリに化けた竜が運んできたのよ」っていう話が本当だってことか?
 まさか。
 なんで竜がわざわざコウノトリに化けるんだか。
 生まれたばかりのあたしは、あうあうと、赤ちゃん言葉で何か言おうとしている。
 なのに火を吹けるってすげぇな、あたし。
 水としばらく戯れていると、ふと水溜りに大きな影ができた。
 目を全部開くことはできなくて、かといって首の骨もまだしっかりしていないので見上げることすらかなわない。
 少し汚れた水溜りに突っ込む大きな足が見えた。
 人間の足じゃなかった。
『珍しいものじゃ』
 やがてその大きな影はしわがれた声でつぶやいた。
 何が珍しいって言うのよ?
 ここにあたしがいるのがおかしいっていうの?
 と、そこで大きな影はあたしに話しかけてきた。
 だんだん目に浮かぶものがぼやけてくる。
『お前は名を持たぬ竜』
 一歩、その大きな足を踏み出す。
『実に、久しい』
 声もノイズが掛かったように聞き取れにくくなっている。
 この後も何かを言っていたが、あたしには聞こえなかった。
 たったひとつ、心の中に沁みこんだ言葉を除いて。


――――リヴァイアサン。

+ + + + +

 ありゃりゃー、こりゃもしかしますともしかしますとよ?
 やばい。どうかしてる。目がいかれちゃったのかしらん。
 あたしは頭を抱えて誰も通らない道端にしゃがんでしまった。
 あぁセンセ。自分の身がかわいいからって自分優先なんかするんじゃなくてちゃんと転校生を案内してあげようよ。
 見るからに迷子になってますってな感じの転校生が目の前にいちゃってるんですけど。
 運が悪いからってこりゃないだろう! ハハハ!
 って笑い事じゃない。うん。
 ここは都内でもかなり陰気なところだ。日当たりがかなり悪くて洗濯物が乾くわけもなく、そして道が細い上に人通りはとっても少ない。だけど学校から家まで一直線だからあたしはこの道をよく使う。近道ってやつよ。
 だいたいの近道ってのは入り組んでいると思うけど、この道もそう。何本も道があって近所の人じゃなきゃ大きな道に出られないってこともありうる。
 はぁ、これは助けてあげなきゃいけないんだろうな。
 あたしはある位置で突っ立っている月神炉夷に話しかけた。
「月神くん、どうしたの?」
 月神くん、なんて呼びたくなかったがいきなり呼び捨てはよくないだろうし、ここは無難に行こう。それに迷子なの? なんていったら危ないことになりかねないわ。慎重に、とね。
「別にどうもしない」
 なのにこの転校生ときたら。不機嫌オーラを出しまくってつんとして答えた。お前ね、デレ度の低いツンデレじゃないんだから。
「じゃあこんなところで何やってるのよ」
「なんだっていいだろ」
 ムカ。正直に迷子になっているといえばいいのに! 素直じゃないやつめ!
「ここ、あんまり人が通らないんだからね?」
 だからあたしの道案内を断るともっと迷子になるって言うのに。
 月神炉夷はうざったそうにあたしを一瞥した。
「それは好都合」
 …………なんだって?
 迷子になっているところを、他のやつに見られたくないっていうのか?
 っがーーーー!!
「もう親切に道を案内してあげるっていってんのに何なのよその態度は?!」
 とうとうあたしは切れた。いや、とうとう、じゃないか。普通の人なら我慢してる。悪かったわね短気で!
 月神炉夷……えぇい、長ったらしい、炉夷でいいや。あたしは炉夷の手をつかんで取り合えず細い道から出た。
 いや、出ようとした。

 バチィイッ!

「――っ?!」
 な、何なの今のは?!
 電流が流れたような感触にあたしの手がびりびりしている。何かいけないものでも触ったんだろうか。炉夷の手を触れたとたん、痛みとなんともいえない感情が体全体に染み渡った。
 驚いて炉夷の顔を見た。炉夷もちょっと驚いているみたいで、金色の髪には合わないその黒目が見開いていた。
 その目には、あたしの知らない山が映っていた。
 なによ、炉夷から見たあたしは山だったの? と言いかけて、それは炉夷の瞳に写っているんじゃなくてあたしの頭の中でまるで思い出のように駆け巡る。走馬灯、ってこのことなんだろうか。
 そして最後につぶやいた、言葉が鮮明に残って。
「――――リヴァイアサン……」
 って何。
 でも炉夷には心当たりがあるみたい。あたしが言った途端顔を顰めた。そしてさっきまで立っていたところに戻ってまた何か考えている。
「ちょ、ちょっと」
 さっきの怪現象をほうっておくのか? それとも静電気かなんかだろうと思ってあたしは無視か?
 なんて俺様。自己中心的だな、オイ。先生と同レベルだぞ?
 だけどあたしはさっきのが静電気なんて信じられないから。痛いのはともかく、あの変な風景を見てしまったからには黙ってられないわ。
 問い詰めようとしてまた炉夷に触れようとしていたのであわてて引っ込めた。はたして言葉だけで通じる相手かわかんないけど。
「もー、さっきのはなんだってんだ」
「お前も悪魔の端くれなら黙ってろ」
 あ、悪魔ぁ?
「悪魔って何よ」
「……」
 シカトだー!
 またしても何か深々と考えなさって無言になってしまってる。
 もう今日は帰って明日にでも問い詰めればいいかも。というかそのほうが幾分といい気がしてきた。
 動けずにずっと立っているのも癪なので炉夷を眺めることにした。
 はぁ、やっぱりいつ見てもこいつは恰好いいな。というか奇麗、とでも言ったほうがいいだろうか。ロシアじゃこんな人は当たり前なのか? 日本人の知識が狭いだけなのだろうか?
 こんなこと考えたって分かるわけないんだろうけど。
 と、そこで炉夷がやっと喋った。
「……ケルビムか。だがあいつがこんなにはっきりと痕跡を残すのはおかしい…」
 また分からんことを。
 炉夷はこれ以上悩んでもどうしようもないと分かったのか、すたすたとどこかへ行ってしまう。
「ま、まちなさい!」
 あたしは炉夷についていく。というかこのままいくと家にもたどり着くからどうせはこっちに行かなくちゃいけないんだ。
 炉夷に追いついて並んで歩き、さっきのことを聞こうとした。
「ねぇ、なんだったのさっきのは」
「触発のことなら、あれは共鳴だ」
 きょうめいぃ?
「何の」
「悪魔であることの」
「あくまぁ?」
 つっけんどんに言い返してくれるのはいいんだけど、もうちょっと現実味のある答えがほしい。
 じゃあ悪魔がいるってことで話を進めちゃおう。
「月神くんは悪魔なの?」
「でなければ共鳴はしない。それなりの強さを持つ悪魔同士であるからこそ共鳴し、反発しあったんだ」
 ちょっとまて。
「……それじゃああたしが悪魔ってことになるじゃない」
「そうだな」
「じょ、冗談じゃないわよぉ! あたしは立派な人間の部類に入る女子高生よ!」
「人間は立派じゃない。悪魔にしてみたら大好物の餌だ」
 エサ?!
 なに、悪魔は吸血鬼とでもいうの?!

『風の噂じゃ首から血を流しすぎてあやうく失血死するところだったらしいよぉ? でも死体の周りには流した血が一滴もみつからなかったって……』
『不気味よねぇ、血を啜ったりして』

 そういえば愛が言っていた通り魔の噂。
 あれはまさか悪魔の仕業、だったり?
 あはは……まさかそんなことあるわけないじゃない。
 悪魔なんて、所詮は空想上の生き物なんだから。
「存在しないと思ってた?」
「……い、いるわけないじゃない」
「だろうと思った。人間は弱いくせに自分が一番だと誇りたがるからな。そいつらの周りにいれば誰だってそうなる」
 その解釈ははたして正しいのやら。
 ああ、いくら近道だからってこの道を通るんじゃなかった。不気味な道に怪しげな会話。
 月神炉夷。
 こいつは危ないヤローだ。
 だから逃げたいんだけど、逃げれない。
 こいつの目が赤くなったのをばっちり見てしまったからだろうか。
「今は久しぶりにサイコーの気分なんだよ。捜し物も見つかったしな。見せてやるよ悪魔とやらを」

 え、ちょっと。何する気よ?



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