序章 −暫しのお別れ−
神聖なる悪魔を奉る神殿の奥深く、格子で囲まれた廊下があった。かんかん、と格子と同じように作られた鉄の廊下では足音と声が疎ましいほどこもって響く。
その廊下のさらに奥には四角に作られたひとつの広い部屋があり、中央に大きな円の模様がある。円の模様は、俗に言う召喚魔法の一種の魔方陣だ。特定の人物を違う世界に送り届けたり迎え入れたりと、今ではあまり用のない代物だが、青年と女はこれを目的にこの部屋まで来たのだった。
「あっはっは」
傍にいた甲高い女の声が良く響き、青年は思わずむっとする。
「いきなり何だよ」
「いやいや、前にもこうして声を出して遊んでいたのだよ。私が小さい頃も、確かアルファスとみんなでここに侵入して大合唱していたな」
女は昔を懐かしみ、再び大笑いを始める。女が大合唱していた頃に青年はまだ生まれてなく、青年は白けてしまう。自分の生きていない頃の思い出を語られるのは、あまり面白くない。
青年はもう一度魔方陣を見て、その周りをぐるりと一周する。特に変わった所はない。一見訳のわからない文字がたくさん並んでいるだけの普通の魔方陣だ。女はこの魔方陣がとても難しいものだと言っていたものだから、青年は安堵のため息をついた。これならば召喚できるだろう。
対象は自分。
行く先は人間のいる世界。
目的は人捜し。
「……相変わらずだ。何故ここは壊れないんだ」
この真上に戦争があったというのに、と青年が漏らすと女は艶笑し、当たり前だろ、と答えた。
「お前は知らんだろ。この神殿の床の下全体に修復の魔方陣が施されていた。いくらこの前のような戦で神殿が壊れようとしたとしても、ここには被害が及ばぬのさ。どうだ、賢いだろう? さすが前魔王の力だ」
「……そんなに俺の前で自分の夫を誉めたいか。前魔王は、死ぬときはあっけなかったというのに」
「そんなことはどうでもいい」
「おい、自分が撒いた話だろ」
「だからどうでもいいといっているだろう。早く行け、炉夷(ろい)。時間は限られている。夜明け前に行かねば力が失せてしまって次の満月までまた延びてしまうさ。そんなことをしたら困る。この私が」
「……人捜しもお前が勝手に手配したんだから、そりゃ困るのはお前だけだろうよ」
女の身勝手さにため息をつくしかない青年だった。
最初、突然の女の頼みに断ったのだが、女の凄みに押されて青年は渋々うける羽目になったのだ。
だが、後に受けるのではなかったと後悔する。
なんせ、ただの人捜しなのではなく、自分の嫁、とやらを捜さねばならないのだ。
その手配を、正面にいる女は本人にも知らせずに執事やら召使やらを酷使していたのだから、これは不平等だろう、と青年は思った。青年がちょっとした頼みで執事やら召使やらに頼んでもちっともいうことを聞かないくせに――否、もとから女が頼んだとしても無駄だったろうが――今回はすんなりと女の言うことを聞いたらしいのだ。腹立たしい。
女は、今度は哄笑して青年を脅かせた。
「笑止、困るのは私だけではないよ。アルファスもリンウェイもその他諸々……」
「省略すんなよ」
「手伝った者はみんな困るんだから、何としても炉夷は嫁を捜さねばならない。そのためにみんなは胸張って手伝ってくれたんだからな」
と、女はない胸を張って威張る。
「……」
青年は諦め、首を振るだけだった。女に何を言っても駄目なものは駄目だ。最近大人しいと思っていたのがここでまた元に戻ってしまうのだから、尚更悪い。
女を振り切った青年は自ら魔方陣へと足を踏み入れる。一瞬、自分の体がふわりと浮いて、また重力を感じる。エスカレータに乗っているようなものだ。良いとも悪いともいえない気分。それを感じながらも青年は魔方陣の中心であるだろうと思われるところまで歩いた。
魔方陣に大した詠唱はいらない。一言か二言程度で済む呪文を女が唱え終わったとき、ふと女は思い出したように言った。
「嫁は私のような貧乳娘を選ぶなよ。出来れば巨乳な子供がいい」
……それを俺に言われても。
魔方陣の効力が出始め、青年は何も言えず悪魔の住む領域から嫁を捜すために、人間の世界へと飛び立つのであった……――。